若い頃の苦労は買ってでも
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」
よく聞く言葉だ。
自分自身若いときは何事も勉強と思って、俗にいうブラック企業などでもがむしゃらに働いてきた。
その時はそんな言葉を意識することもなかったが、最近そんな言葉が理解できた気がする。
今自分が多少なりとも世間に認められているのは若い頃の努力が地続きに続いているのは間違いがない。
当然苦労という名の努力は何かしらの成果に繋がる事は当然の話であって、努力自体はいつでもするべきだ。
だけど努力のタイミングによって努力と苦労のバランスが大きく変わるのだと思う。
極論人間歳を取れば様々なプライドや価値観が凝り固まってしまい柔らかな発想や素直な受け入れが難しくなってしまう。
若い頃はいい意味でなにも知らないからこそ、変なプライドが邪魔をすることもなく、想像もできない将来の成長した自分を糧に耐えることも出来る。
これはある程度理解していたが、あともうひとつ意識するきっかけになった言葉がある。
最近友人の経営者が雑談の中で言った話、
「みんな歳を取ったら「若いときにがむしゃらやったからもういい」といって保守的になる。そうじゃなく若いときは攻めるための準備期間で年齢が上がった今こそがその成果を出すときだ」
全くもってその通りだと思った。
歳を取れば努力は評価してもらえない。
若い頃は努力を評価してもらえる。
ミドルの年代以降の社会人に求められるのは純粋な結果であって、保守的な人も若い頃の努力の結果、そこそこの苦労でそれなりの成果を出す手腕を身に付けているに他ならず、見方を変えれば保守的に生きていられる人たちもある意味で若い頃の成果が実った結果と言えるのかもしれない。
だからこそ若い頃の努力は必要なのだと心から思った。
今の時代進学が推奨されるのは自分の可能性を広げるためだ。
努力も一緒で、若い頃に努力を行うことは将来自分が保守的になるのも野心家になることも可能な実力を身に付けるためのプロセスとなるのだ。
うちにいる若い従業員に話をした。
「だれかに買われる人間じゃなく自分を売れる人間になれ」
受動的に買われるのではなく、自ら自身の価値を決めて自信をもって能動的に売り込めるような人間を目指せという意味でいった。
努力を評価してもらえる若年は商品としての自分の企画、研究開発期間。
成果を求められる中年層は完成した自分を売り出す期間。
それがどんな商品(自分)でもいい。
それなりの値段でそれなりの機能でも、高価格で高性能でも。
それを作り出せるのは本当に短い「若いとき」しかないのだ。
だから今成長を求められる若年層には後悔がないよう自分がどうありたいかを意識して、
「若いときの苦労を買ってでもしてもらいたい」
そう思う今日この頃です。