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愛に終わりはあるのか?

 愛に終わりはあるんだろうか。
 愛を諦める人間がいるだけで、本当は愛に終わりはないんじゃないだろうか。

 そんな疑問が湧いて、亡くなった恋人のことを思い出した。
 当時は愛していたけれど、「今はどうか?」と問われたら、「さして愛してない」と答えると思った。あれ、愛が終わっちゃった。やはり愛には限りがあるんだろうか。
 元恋人には離婚歴があり、別れた妻との間には子供がいた。先妻が不倫の末、再婚するための離婚だった。
 別れた夫婦の関係性はどこか奇妙だった。なんというか、彼らはどこかでまだ夫婦をしているのであった。それを当事者は「子供がいるから当然だ」と弁明していたけれど、違和感が拭えなかった。どうもそれだけではない気がする。離婚直後の彼らの気持ちは終わっていないように見えた。むしろ離婚を通じて「お互い思っているところがあるよね」と、ある種の愛を確認し合っているようにさえ見えた。彼らは、お互いが望む愛し方をしてもらえなかったから破綻しただけだった。
 そんな状態でお付き合いしたら、愛する以上の複雑な感情が湧きまくって当然だ。火中の栗をひょいひょい拾いにいった当時の自分を咎めたい。そして「さっさとやめな。あんたの悩みがなくなることはまずないよ」と助言してやりたい。
 残念ながら未来の私の助言は当時の自分に伝わることはなく、関係は続いた。ストレスフルな状態に堪えきれなくなった矢先、元恋人は余命宣告された。5年生存率20%の病気だった。
 その後、看護師を好きになったから別れてくれと言われたとか、嘘だと思って受け入れたら本当だったとか、実に色々なすったもんだがあった。結局私は彼を看取ったが、葬式では先妻に「私と彼には特別な絆があった」と謎のマウントを取られた。少なくとも彼女は、やはり離婚後も夫婦をしていたのだとわかった。
 とにかく、複雑なことがありすぎた。あれら全部をひっくるめて、今またあの人を愛せるかと言われたら、やっぱり難しい。
 あれ、また愛が終わっちゃった。どうしよう。「愛に終わりはあるのだろうか?」という疑問に「はい、愛に終わりはないです」と答えたいのに、なかなかどうして、愛を終わらせてしまう。要は自分の傷が深すぎるのだ。
「あの時、ああして欲しかった。でも、してもらえなかった」
「あんなひどい思いをした。でも、助けてくれなかった」
 そういうことがあまりにもありすぎた。生まれ変わって仏にでもならない限り、完全リセットは難しいんじゃないかと思えてくる。
 愛憎交々。それでも当時の自分は愛を捨てきれなかった。彼が亡くなった後、一本のカシワバゴムの木を買った。「あの人の代わりだと思うことにしよう」「この木を依代にして、彼の魂にきてもらおう」と思った。もはや降霊術である。そんな能力はまるで持ち合わせていないのだけど。
 予想に反して、当初の思いは次第に疎ましくなっていった。それだけ状況が変わり、しあわせに生きられるようになったということだ。よく「死別した恋人や妻を超えられない」という話を聞くけれど、自分には当てはまらなかった。素晴らしい人とめぐり逢い、おかげさまで結婚10年、とてもしあわせだ。夫が本当に大切にしてくれるので、「元恋人は、いつも肝心なところで助けてくれなかったなあ」「あいつはひどい男だ」と、自動的に思うようになった。
 だから「愛が終わってしまう」んだよなあ。最後はこの木そのものを愛するようになり、元恋人のことなんてどうでもよくなったのだった。
 その頃しばしば、霊能のある人達から「亡くなった彼は、今もあなたを守っていますよ」と言われていた。正直、それはありがた迷惑だった。元彼のことを嫌いになる女性が時々いるけれど、多分こんな感じなんだろう。亡くなった、愛を傾けた男に対して思う人は珍しいのかもしれないけれど。
 その気持ちが変化したのは、カシワバゴムの木が枯れた頃だった。元恋人のことはともかくとして、このカシワバさんのことは辛い時を支えてくれた戦友みたいに思っていた。ある日、鉢の植え替えをしてもらったら、「この木、半分枯れてます」と言われてしまった。
「ええ、そんな!」
「上はもう、切った方がいいですね。その方が木にもいいんで」
 こうしてカシワバさんは上半分をちょんぎられた。
 そこからは早かった。あっという間に枯れてしまった。暑くても寒くても耐え抜いてきたのに、引っ越して良い環境になったのに、枯れてしまった。
 随分と悲しんだのだけど、その前後、元恋人の夢を見た。「俺もそろそろ、行かなきゃなあ」と言って、彼はどこかに行った。カシワバさんを依代にして彼はずっといたのだろうか。
 不思議なことだけど、そこからなんだか気持ちが軽くなって、元恋人が「憎い男」から「たまに思い出す人」くらいに変わったのは事実だった。
 そうなってみたら「愛に終わりはない説」が、自分の中で少し優勢になった。過去の愛を否定したくなるのは、複雑な気持ちが邪魔するせいなのかもしれない。とても感覚的なことなのだけど、愛憎の「憎」を超えた先には、やっぱり愛があるような気がする。ただその愛は、人間が愛し合うというような性質のものではなく、もっと根源的な、いろんな宗教が説いている何かなのかもしれない。
 いつかそれを学ぶ時も来るのかもしれない。そのために、あの、計り知れない、モンスターみたいな負の感情と向き合わなければならない時がまた来るのかもしれない。これまで散々力を尽くしてきたにも関わらず、いまだに倒せずに生き続ける亡霊みたいなものたちと。
 まあ、そうなったらまた向き合えばいい。処理し切ったら、なんか気づきを得るだろう。もしかしたら来世で仏になる前にクリアーできるかもしれない。そうして「愛に終わりはない」ということが腹落ちしたら、それはそれで素敵なことなんじゃないか。きっと涅槃に片足つっこめるに違いない。
 長きに渡り、自己回復に努めてきた。まだまだこの旅路は続くのかもしれない。その先にはきっと、もっと深い愛との出会いがあるのだろう。




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