好色?仁徳天皇ゆかりの難波神社
心斎橋「氷室祭」で有名な難波神社に行ってきました。
難波神社は、西暦406年、反正天皇が河内国丹比紫籬宮
(はんぜいてんのう、かわちのくにしばがきのみや)
に都を移されたときに、父帝の仁徳天皇をしのんで
お建てになったのがはじまりとのこと。
ここで仁徳天皇についてWIKIから。
4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。譽田天皇(応神天皇)の第4皇子。母は五百城入彦皇子の孫・仲姫命(なかつひめのみこと)。譽田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨御により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
えぇぇぇーっ!
兄上様である皇太子が皇位を譲るために自殺?
自殺?
そんなことイヤー!ですよね?
私の存じ上げている天皇様といえば
昭和天皇と平成天皇、そして現在の天皇だけですから
皇位を譲るために自殺なんて、ちょっと考えられない。
しかも実在の天皇様らしい。
そして次に難波高津宮に都を移すってあるから難波神社は本当に由緒ある神社なのね!
次に気になるのは『竹内文書』に関係のある武内宿禰の孫娘と結婚。
武内宿禰がでてくるとグッと信憑性が高まるのは先日の本のおかげ。
即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した[1]。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。
聖の帝、政治家としては能力が高かった。
一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。
ワーオ!なんてスゴイ天皇様?
即位30年で異母妹の八田皇女を
今風に言うと側室にしようとして、
激怒した皇后さまと別居。
皇后さまはその5年後お亡くなりあそばし、
その3年後八田皇女を皇后としたって・・・・
まぁぁぁぁ!
今日はLINEニュースで熟年離婚の八代亜紀さん、
水前寺清子さん、超大物、鈴木保奈美さんと石橋貴明さん、
そして別居中の上沼恵美子さんのゴシップを読んだばかり・・・
鈴木保奈美さん、八代亜紀さんや、前寺清子さんたちは、
それぞれ別の人生があると思うに至った、
という大人離婚ですよね。
ワタクシとしても熟年離婚いたしましたので
気持ちはわかる。よーくわかります。
離婚というのはすごいエネルギーがいるもの。
このエネルギーがなくて離婚できないで
家庭内別居してる友人がいるの。
まぁ、私に時々どうやって離婚したらいいの?
とお約束のように聞いてくるのですが、
個人差のあることだし、相手のあることで
自分だけ離婚したくってもそう簡単にはいかないわよ。
ぐらいしかアドバイスできることはない。
しかし仁徳天皇という方は
今でいうならイギリス王室並みのスキャンダラスな反面、
人間臭いとも言えますよね。
天皇家の歴史に詳しくないので、
この難波神社を建てられた反正天皇を
恥ずかしながら知らなかったです。
しかし氷室を狩りの途中で発見して
村長に氷室のことを訪ねられ
真夏に氷を献上されたことは素晴らしい!
今よりもっと氷は貴重なものだったはずだし、
冬の氷を夏まで保存する技術を聞いて
10か所の氷室を造られた。
庶民には手の届かない「贅沢な氷保存の技術」だけれど、
熱中症で亡くなる皇族がいらっしゃらなかったのなら良いこと。
今のように皇位を継承できる方が少ないと
昔の皇族は神話だとしても子沢山。
だから皇位を譲るために自殺しちゃった皇子がいらしたなんて・・・・
屈折した美談にしたてあげた神話には
「それ架空の皇子とか皇女様じゃない?」とライトに読み流ししています。
歴史で教科書に載るのは
「同族で争って殺し合って皇位を奪う」事件が多かったですから。
話があちこちしますが、ともあれ難波神社は
朱雀天皇のとき943年に摂津の国の総社と呼ばれるようになり、
1071年の後三条天皇がお正月の行幸で夢を見られて
素戔嗚尊スサノウノミコト、
倉稲魂尊ウガノミタマノミコト、
五穀豊穣を誓われている神様を一緒に
お祭りするようにお命じになったとの伝承があります。
心斎橋に移されたのは豊臣秀吉が大阪城を建てた時です。
現在の御社は1935年
昭和14年御堂筋の開通に伴い5年かけて建てられたのですが、
1945年空襲で鳥居と玉垣以外は全焼、
1974年までかかって今の社殿になったそうです。
難波神社のなかに
稲荷神社は倉稲魂尊ウガノミタマノミコトが祭られ
(難波神社のパんフレットでは「祀る」が使われていない)
金毘羅神社 大物主大神
十四柱相殿神社(ジュウヨンバシラアイドノ)には
天照大神・豊受姫大神・応神天皇・春日四柱大神
猿田彦大神のほか
歴史上の人物菅原道真公・楠木正成公・
豊臣秀吉公・徳川家康公も祭られています。
1枚のパンフレットには
「難波神社の話のタネ」がいくつか載っています。
面白いので掲載します。
Q. 難波にないのに、なぜ難波神社というの?
A. 昔は当社の地名を上難波荘と言い、
今の難波を下難波荘といいました。
共に源頼朝公より寄進された社領で、
上難波には主祭神の仁徳天皇とお稲荷さんを祀り、
下難波には、スサノオノミコトを祀る神社の一つでした。
今は上難波の地名は忘れられましたが、
主祭神を祀る上難波の中心であったので難波神社といいます。
Q. 氷の神様ってどんな神様ですか?
A. 仁徳天皇の兄、額田大中津彦皇子が
奈良のツゲノに狩りをされた時、
野中に氷室を発見されました。
村の長の大山主に尋ねると
冬季地中に大きな穴を掘り
その上に氷を積み重ね、
サンドイッチ状に草で覆えば、
氷を夏まで保存できると答えました。
皇子はその氷を天皇に献上されたところ、
大変喜ばれた天皇は国の制度として
十か所の氷室を造られました。
この由縁により当社の夏祭りは
「氷室祭り」と言い、氷を献じる珍しい祭りであります。
そりゃ、そうでしょうよーっ!
というわけで、
他にも「話のタネ」は乗っていますが
ちょうど「氷室祭」の御朱印をいただくことができました!
その頃の「夏の氷」は
紀伊国屋文左衛門の「夏のミカン」と
同じぐらい値打ちがあったんじゃないかしら?
将軍か皇族じゃなきゃ見ることもできないほど、
きっと値三千両よ!
夏のミカンとかき氷、今じゃ庶民の私も食べることができて幸せ幸せ!