うつけ者ノブナガがオヤジの葬式で抹香投げたという萬松寺
亀嶽山・萬松寺、今は亀岳山・万松寺としています。
この万松寺の歴史は古く、織田信長公の父、
織田備後守信秀公が
叔父の大雲永瑞和尚を住職に迎え
1540年に菩提寺として建立したお寺。
6歳から約3年間を織田家の人質として過ごした徳川家康公(当時は竹千代)は、この万松寺で匿われていたようです。
その時13歳であった織田信長公とは、この時に出会っていたと歴史小説などではされています。
のちに戦国大名となった2人は、本能寺の変で信長公が死す時まで約20年にわたり同盟関係にあったとされるも、家康公の方からみれば息子を殺せと言われ殺す、正妻を殺せと言われて殺す、という隷属関係ともいえるでしょう。
信秀公の葬儀で信長公が瓢箪を腰にいくつもぶら下げた乱れた服装で表れ、父の位牌に向かって抹香を手づかみで投げ付けたこと、は「信長うつけ者説」で有名な事件ですね。
また徳川の天下になってからは、尾張徳川公初代の義直公の正室であられる春姫様の葬儀が営まれました。御深井観音は春姫様の守護佛です。春姫様は名古屋城の北にある「御深井の里」(おふけのさと)と呼ばれるお庭にお祀りされていた観音様を深く信心し、不安や苦しみから解き放たれたといわれています。(パンフレットによれば)1871年、春姫さまの菩提所である万松寺に移され、御深井観音として女性を見守り、良縁・安産へと導いています。
ご利益は 恋愛成就・良縁成就・安産成就・苦難除去・子孫繁栄です。
また身代不動明王は、1570年、織田信長公が金ヶ崎の戦いの帰路についている時、鉄砲の名手杉谷善住坊に狙撃されました。
ところが鉄砲の玉は万松寺の住職からもらい受けた懐の「干餅」に当たり、かすり傷ですみました。
信長公は万松寺の不動明王のおかげと感謝したといわれています。のちに加藤清正公がこの話を聞き「身代不動明王」と命名しました。
この話は初耳です。
私としては司馬遼太郎の『尻くらえ孫市』の話、隆慶一郎の『陰武者徳川家康』の話の方がずっと信長狙撃事件としては面白いと思っています。ですから「杉谷善住坊」の狙撃説は眉唾にしか聞こえない。小説のエピソードの方に毒されているんですね。
身代不動明王のご利益は厄難消除・災難消除・身体健全・病気平癒・交通安全です。
そして、「重軽地蔵」
この真っ赤な水玉の御涎掛けをまとったお二人組の重軽地蔵菩薩、人々を苦悩から救う仏さまとして長い間信仰されてきました。中でも重軽地蔵は、信仰する人の願いが成就するかどうかを教えてくれるといわれています。お参りの際は「お地蔵様」を持ち上げて、次に願いを込めてお参りし、もう一度お地蔵様を持ち上げた時、軽いと感じたら近い将来願いが叶うといわれています。
しかし、今は手で触ることはできないようになっています。
重軽地蔵のご利益は、心願成就・諸願成就・安産成就・子孫繁栄・子供守護です。
真言宗のお寺さんなので、護摩祈祷が行われています。
その護摩木には七夕の護摩として朱文字で願文が記入済み
自分の名前を書くだけにしておかれていたり
ロマンティックな上質な短冊が置かれていたりして
お参りする人にやさしいお寺だと感じました。
信長公のからくり人形も抹香投げ事件と敦盛の2種類があり
10時、12時、14時、16時、18時の5回見ることができます。
今回の御朱印には武蔵川部屋と七夕限定の印があり、普段と違う御朱印がいただけます。
向かいの空き地でお相撲さんたちが練習をしていました。武蔵川部屋の名古屋場所の宿舎にもなっていました。
では最後に不動明の真言を
「ノウマク サンマンダー バーザラダン
センダン マーカロシャーダー ソワタラ
ウンタラター カンマン」を3回唱えて終わりとしましょう