自己否定の権化の太宰がいう「自愛」
今日の一言は太宰治
「自愛。人間ってこれを忘れてはいかん。
結局、たよるものは、この気持ちひとつだ。」
『新樹の言葉』から。
そうなんだろうなぁ。
深い言葉、深い意味。
自分を好きだって気持ち、なかなか持てない。
だけど、早朝の散歩するようになった私は好き。
今日の言葉を書くにあたって、辛かった。
太宰が心中の常習犯で最後は自殺している。
この人が「自愛を」いうこと自体が矛盾していると感じる。
それでも「結局頼るものは、自愛」なんだという切なさが
にじみ出ているから。
私も人様からそう見られないけれど
子供時代は家庭の事情で親戚をたらい回し。
母が3度目の結婚・入籍するまで「みじめ」な気持ちはたっぷり味わっています。
自分がひねくれていたこともあるだろう。
親戚の子供とは仲良くしても所詮いとこ。
病気や怪我をしから
昭和30年代は電話なんかどこにでもあるわけじゃなかったから
それはそれは心細かったし、どこか痛いとは言えないものよ。
子供にも子供なりの遠慮とかあるし、
私のおかげで親戚の人たちが気を使っているのもわかる。
実は小学校四回転校、誰とも馴染めず終わってしまいました。
だから『3丁目の夕日』はいつでも泣ける映画です。
さて、ともかく「自愛」の気持ちが持てない時は
パッと違うことをおもむろにします。
ジャンプしながら九九を言う。
これだとたった1分でもスゴイ効果。息は上がるし、
九九でもジャンプしながらだとスラスラ行かない。
没頭すること、声を出して感情を頭の中でリフレインさせない
自愛って最後に自分のこと信じることのできる気持ち。
認めたくないけれど両親が世間体に縛られた家庭で育ったりすると、
「その場」の状況によって変わるから自分の価値観なんて無い方が良かったりする。
自愛って持つの難しい。
子供の頃、深雑な環境で育った無力だった子供時代を生き延びたことエラい。そうやって自分をホメるしかないの。
子供のころはこんな風に考えていました。
1.親を怒らせたくない。
2.親に恥をかかせたくない。
3.自分さえいなければいい。
自虐が入っちゃっていますが、自愛って持つの難しい。
自愛って最後に自分のこと信じることのできる気持ち。
認めたくないけれど両親が子供を自分たちの所有物だと思っていたり、どんなに頑張っても認めてもらえない厳しい家庭でそだったり、アクセサリーのように子供を扱う家庭で育つと大人になって問題が噴出してくるものなの。
共通しているのは「親からの承認欲求」だけど、今更なことが多く、お互いが解決できることはほとんどない。
「許す」「忘れる」をおすすめする「毒親本」が多いけれど、私にはどうにもできないことが次々起こる状況が続いているの。
一つ許せば、また次の変化球が来る。
家庭だと「その場」の状況によって変わるから自分の価値観なんて無い方が良かったりする。
忘れよう、許そうという感情が出てきたら、他の事をして紛らわす。
スキップしながら「九九」を唱える。暗記しているなら「歩きながら般若心経」を唱える。動きと声出しの両方をすることで「イヤな気持ち退散!」