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20250218に矢花黎の”言葉”を食らって
まだ私は7 MEN 侍を過去にはできないので、まだここでは振り返りません。
ここでは率直に、昨日更新された矢花黎くんの、私が一番好きで、とても信頼できると感じている人のブログを読んでのことを書き留めておきます。
前置き
まずは、その日に矢花くんの言葉が聞ける・見れるかもしれないことが救いでした。矢花くんの番じゃなくても心が乱れないようにとは思いつつ、実際に矢花くんの番でありがたかったです。
どんな感じで来るか、色々想像はしつつも、予想は立てずに、どんな感じでもそれが今の矢花くんの表現の選択として受け止める心の準備はできているつもりでした。
実際に読んで、発表から数日のこのタイミングで、自分の中で特に大切な人の紡いだ文章を読むことができたこと、思い・想い・心が見えた(と感じられた)こと、自分が知っている矢花黎の存在が見えたと思ったことなど、嬉しさや安堵が大きくありました。
(正直、新体制一発目のブログでは、知らない矢花黎になってしまったのではないか、ひとりでいかないで、、と思いましたが、いまならあの表現も分かるような、受け入れられるというか、ある意味正解な気がするというか)
これまでの私の人生に、こんなに数日間、これだけの時間、さまざな(ほとんどが負の)感情に襲われ、特にやるせなさや疑問、悔しさなどのモヤモヤすることばかりが頭を巡っていること、あったか分かりません。
それが、2025年2月18日21時に更新された矢花黎さんのブログを読んで、少し浄化された部分があるというか、単純に少し元気になりました。
↓ほんへ↓というもの
このブログで彼は、言葉は信用していないと言っていました。
でも、だからこそ自分が胸を張れるものだけを届けている(意訳)と書いてありました。
言葉を信用していない矢花くんが届ける言葉だからこそ、信用できると思いました。
彼が言葉を信用していないのは、その言葉が持つ強い力を知っているからこそだと思います。
彼の言葉に私が救われたように、言葉にその力があることを彼は知っていると思います。
彼の優しさも似ていると思います。やさしくない世界を知っているから、それをも包み込む優しさを知っているんだと思います。
そんな矢花くんの周りは、やさしい世界だといいなと思います。
とにかく、矢花くんがこうしてブログで言葉を紡いでくれたこと、その場を保とうとしてくれたこと、それを受け取ることができることに、とても感謝しています。
まあ、言葉だけじゃ何も分からんと言う人の紡ぐ言葉に、何が込められているのかは本当のところは分からない。
「濃い味」、ハッキリしたものだから忘れていたけど、「言葉」というものから受け取ることができることは実はとても曖昧で、それが常であるということに気付かされました。
それでも矢花くんが自分の意思で詰め込んだ箱だからこそ、その中身として見えているものは確かなものだと思います。
私も、自分の視覚の、機能を止めたくないと思いました。
これまで私は結構、矢花黎という人間を言葉から受け取る期間が長く、多くを言葉に頼っていた、言葉に偏っていた、そんな気もしました。
これからはもっと、矢花黎の全てから矢花くんを知っていきたい、自分がその努力をしたいと思いました。
そんなこんな言いながら、私自身はほとんどのことを言葉でしかあなたに伝えることができないけど、、。
矢花くんが表現することも、現さないところも、そのまま、ありのままを受け止められるようにしたいと、特にここ最近はずっと思っています。
いろんな味もあり、確かにそこにある味を、しっかりじっくりと味わえる人間になりたいものです。
今振り返ると不安定だったと言える時期も、発表があってからも、私は無理をそんなにしていなかったけど、特に今後について、無理せずいきたいと思います。
想っている、大切な人からそう言ってもらえた安心感、すごい。
変に色々な感情を否定せず、その感情を素直に受け止めて、全部本当の気持ちではあるから、本来は後ろにあるものかもしれなくてもまだその手を引きながら進むのか、前に進むのか、振り返るのか、なんなのか、進む方向や速度はさまざまだと思いますが、いずれにせよ私は多分歩いています。たまには立ち止まったりもしながら。踊ったり、歌ったりもするかもしれません。
独りよがりに火薬を投げつけていたかもしれないこと、反省します。
「綺麗な花火」はいろんな形があると思うから、自分の形で自分が思う綺麗な花火を打ち上げられたらいいなと思います。自分もみんなも。
何が正しいのかを争うんじゃなくて
それぞれ大事にして混ぜて
美味しい未来をつくっていける
あれらの文面の塊(?)からこんなことを感じたというか、こんな世界になればいいなと思いました。
矢花くんは綺麗な花火を打ち上げられたんだろうか。
みんなで一緒にみんなのそれぞれの花火を打ち上げて、見たいな。
見たかったな。という言葉が正しいのかな。過去形になってしまったものもきっとあるな。
#P黎リスト も含めて、矢花くんの中にも色々な想いがあって、色々な矢花くんがいるのかもしれません。殺されて死んでしまった矢花くんもいるのかもしれないとも思います。(一緒に死にたかったとも思うし、私ももう一緒に死んだんだとも思うし、なんてこと書き留めておこうかな)
矢花くんの表現から色々見えるような気もするし、本当のところなんて全然分かんない気もするけど、
どんな矢花くんでも、矢花黎という人間の人生を応援しています。
(応援が足枷になる時は、その足枷を捨ててもらって良いと思ってますからね。)
引き続きこの場所で応援することができる権利を与えてくれてありがとう。
言葉をありがとう。
最後のタグで、現実が顔を出して、涙が出そうになったけど出なくて、でもやっぱりちょっと涙がこぼれて、それでも、このタグもグループも大切にしていきたいなと思いました。
いまは、苦しいものはまだまだ苦しいので、苦しさを認めつつ、無理に変に苦しまないようにしたいと思います。苦しみに気がついているからこそ、その苦しみから目を背けることもあると思います。心の内は、誰にも邪魔できるものでも、されるものでもないので、それで良いと思っています。
まだ思い出にはできないけど、ちょっとこの蟠りだったり、純粋なものをアウトプットしてみた。落書きです。
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大事なことを書き忘れていました。
とにかく率直に、矢花黎が大好きです。
今日も、これからも、ありがとうございます。
"見えるもの"には、色々な類のものがあると思いますので、今日ところはこれで締めたいと思います。(歌詞選抜)
以上、妹こでした。
P.S.
そうそう、矢花くんが、無理しなくて良いって言っているように、矢花くんの文章には何も押し付けるものを感じなかった。
7 MEN 侍のことも感じれるけど、そこに縋っていたり未練がましい様子も私には見えなかった。
かといって、新体制に切り替えた様子(ファンを置いていく様子)や、それを押し付ける様子も全く感じなかった。
7 MEN 侍が無くなってしまったことも、新体制を否定するようなものも感じなかった。
何かを肯定する時、時にはそれが何かを否定することにもなり得ると思っている。私は否定したくないと思うあまり、肯定することからも逃げている時がある。
矢花くんは、私のように逃げの姿勢ではなく、真っ正面から全部に平等でフラットな感じがした。
すごいな、すごすぎる。また尊敬するばかりです。