名橋・旭橋秘話⑦人と技術の伝承 1 旭橋を語る会 2024年11月21日 18:52 「青年よ大志をいだけ」で有名なクラーク博士が開拓使の招きで、札幌農学校(現・北大)教頭として来日したのが1876(明治9)年のことです。そのとき、ホイーラーとベンハローの二人の学者を帯同します。 ウィリアム・ホイーラー教授は、北海道における土木工学の根幹を作った人として著名ですが、ホイーラー教授から土木工学を学び、後に、日本を代表する土木工学者となり、「港湾工学の父」「近代土木の先駆者」と呼ばれるようになるのが札幌農学校2期生の広井勇(いさみ)です。 広井は、米国・ドイツへ留学、ヨーロッパ諸国の土木工事を視察、農学校教授・東京帝国大学工科大学教授なども務めました。小樽築港事務所長のときに手掛けた日本初のコンクリート製長大防波堤は建設から100年を経て今なお健在ということは、広井の技術がいかに優れているかということです。その広井が米国の出版社から出版した「橋の不静定構造力学理論」は世界の名著として知られていますが、この理論は、旭橋の設計にも応用されたと言われています。 北海道経済 2012年8月号ウィリアム・スミス・クラークウィリアム・ホイーラー教授 そして、旭橋の設計指導にあたった吉町太郎一博士が東京帝国大学工科大学助教授として、教えを受けたのが教授の広井勇からでした。その後、吉町は、北大工学部土木工学科橋梁学担当教授、さらに北大工学部長に就任。旭橋の実際の設計は、道庁の塩塚重蔵技士・北川昇技士・樋浦(後、東北大学工学部土木工学科教授)は、北海道帝国大学工学部土木工学科在学中に吉町教授に橋梁学の教えを受けています。 旭橋60周年記念誌「還」は、「ホイーラー教授―広井勇教授―吉町太郎一教授―樋浦大三北海道庁技手への貴重な技術の伝承があってこそ、名橋『旭橋』が生まれたということができよう」と記しています。「旭橋を知る連続公開講座」のなかで、北大大学院工学研究科・林川哲郎教授は、「旭橋は、北海道開拓使時代におけるホイーラー氏からの技術と知識の流れを汲んでおり・・・(中略)・・・設計にあたり参考にされた事例のなかで、特に永代橋への注目が大きかったと推察され、永代橋の影響も多大にあったと考えられる。ドイツの橋をモデルにしたとされる永代橋であるため、旭橋はドイツの技術と意匠をもとに設計されたと思われる」「広井博士指揮の下、豊平橋を設計した山口敬助技士が語った『市街橋としての二大要素は、遠く将来を見越して充分耐久的かつ美術的であることである。 橋梁は単に人馬の通行に叶えばよろしいという時代は過ぎ去り、建築物と同じく『その国の文化の象徴とまで言われているのである』という言葉に代表するように、当時の技術者は相当の信念を持っていたものと考えられる」「その時代における最先端の技術で死力を尽くした橋はいつの時代になったとしても、すばらしい雄姿を誇っていられると思われる。 それこそ、旭橋を名橋へ導いた一番の要因と考えられる」と語っている。 引用が長くなりましたが、名橋は、どうして生まれたのかを極めて適切に言い表していますので、拝借いたします。 書き手/旭橋を語る会 会長(当時) 関根正次北海道経済 2012年8月号吉町太郎一吉町 太郎一(1873年~1961年)日本の橋梁工学者。材料工学者・研究者。代表作に旭橋など。九州帝国大学工学部長、北海道帝国大学工学部長、室蘭工業専門学校(現・室蘭工業大学)学長を歴任した。師は廣井勇。広井勇広井 勇(旧字体:廣井 勇󠄁、ひろい いさみ)(1862年~1928年)日本の土木工学者。元東京帝国大学教授。高知県出身。札幌農学校(現・北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #技術 #設計 #旭橋 #北海道帝国大学工学部 1