名橋・旭橋秘話①タコ労働者 1 旭橋を語る会 2024年11月13日 15:59 明治23年、旭川・神居・永山の三村が開通しますが、それに前後して、上川道路(現三笠市~旭川)・北見道路(旭川~網走)などが開通します。工事には、樺戸(現月形町)集治監(刑務所)・空知(現三笠市)集治監・釧路集治監網走分監(北見市)の囚徒が使役されました。囚徒が移動するときは綱で繋がれ、足は鉄鎖と鉄球がつけられていました。民間が請け負ったところもありますが、その多くは囚徒によるものでした。「罪人の更生とは名ばかりで、開拓のための安価で大量の労働力を供給するために」集治監があったという今では信じられないような話です。開拓当時の旭川は、短時日の間に市街地造成・道路・橋などの施設が整備されていきます。現旭橋の位置に名もなき土橋が架設されますが、その当時のことが書かれている「旭橋工事概況」のなかに『・・・俗ニイフ タコナルモノヲ用ヒ・・・』という言葉がでてきます。タコ労働者のことでしょうか。「タコ」は、囚徒以上に過酷な労働を強いられ、拘束と厳しい監視のなかでの毎日であったと伝えられます。北海道経済 2021年2月号橋台の掘削作業。すべての作業が人力で行われている。現旭橋が、昭和5年11月に着工し7年11月に竣工します。同時期に牛朱別川切替工事が行われますが、両工事ともタコが使われました。それ以外の作業員も当然居りましたが、旭橋では、橋のたもと、旭町側堤防のところにタコ部屋、牛朱別川では、今の明星中学の前辺りにタコ部屋がありました。タコ部屋とは、別名監獄部屋とも言われ、食事のときは立ったまま、粗末なものが与えられ、酒やタバコは高い代金が取られ借金となり、寝るときは1本の丸太を枕にタコが並んで寝る、起きるときは、丸太の端を棒頭が棍棒で叩いて一斉に起こすという生活であったとか。 早朝から遅くまで働かせられる。しかも、逃亡防止のため赤い褌1枚しか身に着けられない。過酷な労働に耐えられず逃亡すると、たいていは捕まって死ぬほどリンチにあったという。工事中に死ぬ人も多く、死んだときは、工事中の土中に捨てられたり川に流されたとも・・・。稀に頑健な人が居て、過酷な労働に耐え、期待以上の仕事をする人は、「棒頭」に抜擢されてタコを監視(監督ではなく)する立場になった。 当時は、今のような建設機械がありませんから、全て人力によるものでした。切替工事では、今の東4条2丁目交差点の辺りから中央橋の辺、堤防のなかまでトロッコの線路があり、土砂を満載にしたトロッコをタコが二人で押すとか、180㎏のモッコを二人で担ぐとか、土を掘るのもスコップとツルハシですから、重労働そのものでした。 タコとは、自雇(自ら雇われる、一般の労働者)に対する他雇、周旋人を介して雇われるもので、労働環境が、蛸が、一度捕まると蛸壺から出られないのに似ているからとか、蛸のように自分の手足を食べて生きていく等々いろいろな説がある。旭橋や牛別川切替工事に限らず旭川開拓には、そうした人々の血と汗と涙がにじむ裏面の歴史があることを忘れてはならない。 (旭橋を語る会会長(当時) 関根正次)北海道経済 2021年2月号橋台掘削作業の様子。トロッコで掘り起こした土砂を運び出している。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #歴史 #旭川 #タコ部屋 #旭橋 1