名橋・旭橋秘話⑧初代旭橋のこと 5 旭橋を語る会 2024年12月11日 20:45 名もなき土橋から鷹栖橋を経て、開村14年後の明治37(1904)年5月、初代旭橋が完成する。 本格的な橋として、市民に親しまれた鷹栖橋であったが、木橋の定めというか、洪水により流失・架け替えなどがあり、さらに第七師団が設置されたこともあり、永久橋架設の要望が高まったことも当然の成り行きであった。 初代は、北海道庁技士・山岡三郎氏の設計による鉄造の吊り橋で、主要材料(鋼材)はアメリカから輸入された。ただし鋼材を使用したのは中央部分だけで、前後は木造であった。橋脚も中央部分はコンクリート製(煉瓦畳)で、両端は木造であった。この鋼橋は、ドイツ人Schwedlerが考案した「シュヴェドラートラス」と呼ばれる、当時としては最新の型式で、我が国では旭橋にのみ採用された。 初代は、昭和5年に撤去され、昭和7年に深川市の納内橋として再生され昭和46年11月、新納内橋架設まで供用された。ちなみに初代は、鋼道路橋として道内2番目のものであり、一度解体した鋼道路橋を再生した例は少なく、道内初であった。 旭橋の命名は当時の町長 奥田千春氏。山岡三郎氏が『旭川の市街地に架かっている橋なのに隣村の名前である『鷹栖橋』というのは面白くない』と当時の奥田町長に相談したもので『目新しい語を選ぶより、字ずらも語調も良い旭橋としては』、といういことで「旭橋」に決まったと伝えられている。橋の左岸正面(常盤通側)には、当時の第七師団長大迫尚敏中将の揮毫による金字で書かれた「旭橋」。右岸正面(旭町側)には「あさひばし」の額が掲げられた。 初代は、25年のお務めであったが、後世に、いろいろな話題を提供してくれている。一つは、馬車鉄道が通っていたのではないかということ。馬車鉄道は、記録上、明治39年5月19日から大正7年7月25日まで、初代と並行して架けられていた専用橋を使っていたが、旭橋の歴史に関心を持つ人の中には、「一時期、馬鉄が初代の上を走っていたのでは」と疑問を呈している人もいる。当時の写真のなかには、橋正面から見て中央より少し左に2本のレールを外した跡のようにみえるものがある。 しかし記録上にも確認できるものが残っていないし、当時の様子を伝える写真なども無い。ちなみに、大正7年の馬車鉄道の廃業は、七師団の多くが満州へ出征したことにより利用が激減、経営が成り立たなくなってのものであり、大正8年9月30日、軌道撤去完了する。 初代架設にあたっても最新の型式と最新の技術、良質の鋼材が使われたと思われるが、橋を解体するにあたっても、当時としては珍しい工法が採用されている。橋脚の解体が爆破によって行われていること。爆破と言っても、写真で見る限り、橋脚全体を一度に爆破したものではなく、少しずつ爆破していったものであろうと推測される。橋本体は、手作業で解体されていったと思われる。 初代の前身が何故「鷹栖橋」と命名されたのか、という疑問については、「明治30年1月の道庁・宮沢土木課長よりの通牒による」と旭川市史(鷹栖村史)にある。明治27年8月に竣工し既に鷹栖橋となっていたはずで、時差があるが、鷹栖橋と命名していたものをあとから正式に追認したものとも考えられる。 書き手 旭橋を語る会 会長(当時) 関根正次北海道経済2012年9月号 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #初代 #石狩川 #旭橋 #鷹栖橋 5