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旭橋の歴史

旭橋の沿革

旭川ナル名稱ノ由來ヲ按スルニ明治二十三年九月旭川村ヲ置カレタルニ(走巳)リ舊土人語ノチユップベツヨリ出デチユップハ太陽ベツハ河川ノ義即チ水源ノ東方ニ當リ朝日ノ出ヅル所ナリト仍テ意譯シテ旭川ト名付ケラレタリト言フ
往時石狩川橋梁架設附近ノ(爿犬)態ハ文獻ノ是レヲ詳ニスルモ少ナキヲ以テ知ルニ由ナキモ明治二十五、六年以降ノ變遷ニ付キ其ノ追想ヲ辿リツヽ識者ノ談ニ據レバ現在常盤通ニ當ルベキ箇所ハ石狩川支流タル牛朱別川及石狩川本流間ニ介在スル中島ニシテ鬱蒼タル樹林地帯ヲ爲シ森林天ヲ蔽ヒテ書猶昏ク雑草ハ人ヨリ高クシテ四面ヲ遮斷シ聲氣通セズ唯河流ノ滔々タルヲ聞クノミナリシト而シテ牛朱別川ハ施設渡船ノ設ケアリタルモ石狩川本流(當時川幅約三十間)ニ對シテハ是等ノ設備モナク個人所有ノ丸木舟ヲ用ヒ漸ク往來シ其ノ困難名(爿犬)スベカラズモノアリタリト言フ
其ノ後附近部落民ノ恊力ニテ中島ノ樹林地ヨリ橋材ヲ伐採シ俗ニ言フ「タコ」ナルモノヲ用ヒ丸太杭ヲ打込ミ土橋ヲ架設シ交通ノ便ヲ圖リ尋テ明治二十七年八月頃道廳ニ於テ初メテ高欄付ノ木橋ヲ架設セラル

『旭橋改築工事概況』

旭橋のものがたり

石狩川をさかのぼり、探検隊がやって来た

明治時代になるまで、北海道はえぞ地と呼ばれており、アイヌの人々が住んでいました。やがて本州などから和人がやって来るようになりましたが、道路が無かったので、みな石狩川をさかのぼってやって来ました。丸木舟をたくみにあやつり、アイヌの人たちが道案内をしました。
江戸時代の終わり頃から明治にかけて、多くの探検家がえぞ地にやってきましたが、全体のようすをくわしく調べ、地図を作ったのが、松浦武四郎でした。

旭川に最初に住んだ和人

明治になって北海道と呼ばれるようになり、国は上川地方の開拓に力を入れるようになりました。この頃、毎年神居古潭の激流をさかのぼりやって来ては、川の中州に小屋を建ててアイヌの人たちと物々交換による商売をする人物がいました。
彼は鈴木亀蔵といい、やがて石狩川、忠別川、牛朱別川などが合流する場所に住みついたことから、この場所は「亀吉町」と名づけられ、現在もこの地名が残っています。

水害に泣かされた日々

川は人やものを運ぶ重要な道でもありましたが、自然の流れにまかせたままの川は、時にはんらんし、大きな被害を与えることもありました。開通したばかりの鉄道の築堤がこわれ、汽車が不通になったり、橋が流され、交通も途絶え、船で非難するということもたびたびありました。
川の多い旭川に入植した人たちにとって、治水と橋の建設が、まちづくりの大きな課題でした。

渡船から橋へ

旭川村ができたのが、明治23年。当時は石狩川にかかる橋はなく、川の両岸への行き来は渡船で行われていました。
石狩川を渡り、近文原野と呼ばれていた地域に入植する人が増えてくると、住民の協力で木を伐採し、明治25年に現在の旭橋の場所に、幅1間(約1.8m)長さ50件(約90m)の土橋がかけられ、それまでの渡船場は廃止されました。しかし、この橋は重たいものには耐えられなかったので馬や馬車などは、船で運ばれました。
その後、もっとがんじょうな橋を、ということで、明治27年に北海道庁が「鷹栖橋」という木の橋をかけましたが、この橋も明治31年の洪水のため流れてしまいました。その後も同じ形の橋がかけられましたが、簡単な工法でつくられていたので、老朽化も早く、人の行き来も多くなかったため、新しい橋をつくる必要に迫られてきました。

鋼鉄製、最初のアーチ橋

初代旭橋

初代の旭橋が誕生したのは、明治37年。当時の旭川は、鉄道が開通し、第七師団が設置されて、ますます人口も増え、町じゅうが活気づいていました。
初代旭橋は、幅5.5m、長さ104.2mと現在の旭橋よりずいぶん小さくできていますが、材料の鋼鉄をアメリカから輸入し、北海道では2番目の鋼道路橋としてその豪華さを誇りました。


初代旭橋

この時、旭川の市街地にかかっている橋なのに、隣村の名前である「鷹栖橋」というのはおかしいという声が上がり、「旭橋」に決定したということです。
26年にわたって旭川の北と南をつないできましたが、師団への幹線として交通量も増え、路面電車を通したいという強い要望もあって、牛朱別川の切り替え工事と前後して、旭橋をかけ替えることになりました。


旭橋の誕生

現在の旭橋が完成したのは、昭和7年。設計指導を依頼されたのは当時の北海道大学工学部長 吉村太郎一博士は、「旭川のシンボルになるような橋・日本の代表的な橋梁となること」を考え、「ブレーストリブ・キャンチレバータイドアーチ」と呼ばれる現在の形式に決定しました。
11月の雪のちらつく中、慣習に則り三世代の夫婦による渡橋式が行われました。橋は人で埋め尽くされ、この日の人出は3万人と報道されました。

旭橋全体図(一般図および地質図)
旭橋に使われる鋼材を運搬した運送会社の記念写真
三世代の夫婦による渡橋式
古くは江戸時代の記録にも残る、わが国の伝統的な渡り初めの儀式である
渡橋式の賑わい

旭橋の架橋を報じる「旭川新聞」昭和7年11月5日(土)の記事

この橋は札幌の豊平橋、釧路の幣舞橋とともに、北海道三大名橋といわれましたが、その後、豊平橋、幣舞橋は現在の姿にかけ替えられ、昭和初期の姿をとどめているのは、旭橋だけとなりました。
建設から90余年、旭橋はさまざなま時代を刻みながら、今日も私たちに力強く美しい姿を見せてくれます。


喜び、悲しみ、いろんな思い出が橋を渡った

旭橋は戦車でも渡れる強さで設計され、かつては軍都旭川を象徴する橋でした。この橋を渡って戦地に行った兵士も多く、中にはふたたび橋を渡って帰ってくることのできなかった人もいました。
しかし戦争が終わり、平和な時代を迎えてからは、旭橋こそ平和のシンボルとして、いつまでもその姿をとどめてほしいと多くの旭川市民が願っています。

戦前の様子
戦時中に行われた空襲訓練
軍事演習


昭和28年の上川神社祭の行進

旭川風物詩 ー旭橋の感想ー
旭橋、橋に掲げられた大額には
『誠』と書かれてあった
この橋をわたるとき
市民は脱帽した
私も敬意を表した
しかし橋や建築師に
私は脱帽したのではない
人間の『誠実』を愛する
こころに脱帽したのだ
愛、と誠実の街
旭川よ!

 『小熊秀雄全集第2巻』
小熊秀雄(1901-1940)は北海道小樽市出身の詩人、小説家、画家。旭川新聞社の記者として文芸欄を担当するかたわら詩、童話等を発表、画作、演劇にも精力的に取り組んだ。
「働く詩人」を自称し、書斎派の詩人たちにはない奔放で大胆かつエネルギーあふれる作品を数多く残した。

旭橋を渡った乗り物たち

開拓のはじめから、馬は大地を耕し、人や荷物を運ぶ輸送手段としても大活躍しました。旭橋にも、馬や馬車がひんぱんに通り、冬には馬そりが人や荷物を運びました。線路の上を通る馬車鉄道専用の橋が並んでかけられていたこともありました。
大正になると、旭川にも外国の自動車が登場しました。その後、乗り合い自動車が市民の足として人気を集め、「円太郎」と親しみをこめて呼ばれました。旭川にはじめて電車が走ったのは、昭和4年。この電車を通すことが、旭橋のかけ替え工事の大きな理由のひとつでもありました。


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