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名橋・旭橋秘話⑤

旭日章の額

旭橋が完成すると同時に、橋正面・橋門溝に、軍人勅諭綱領が書かれた旭日章の額が掲げられた。軍人勅諭とは、明治15年1月4日に明治天皇が、陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正しくは、「陸海軍軍人に賜りたる勅諭」という。
この勅諭は、2700字におよぶ長文のものであったが、「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の五つの徳目を説いた主文と、誠心をもって遵守・実行するよう説いた文からなっている。
旭橋の額は、七師団第七代師団長 佐藤子之助中将の揮毫(きごう)により、「誠」の字を中心に五つの徳目が書かれていた。(第十代 渡辺錠太郎師団長の揮毫説もあった)
橋を渡る時、軍人はこの額に対して敬礼し、一般の人も脱帽してお辞儀をした。電車に乗っている時も、車掌の号令のもと 同様に敬礼したと伝えられる。
この軍人勅諭は教育勅語などとともに、戦後の昭和23年6月19日の衆議院ならびに参議院の決議により失効するが、それ以前、昭和20年10月に、進駐軍が旭川に駐屯することとなるのと同時期に旭橋の旭日章の額は取り外され、一時期、北海道庁旭川土木事務所(8条通12丁目、後の旭川開発建設部)に保管されていたというが、その後の所在は、関係者が懸命に捜すも行方が不明である。
『物のない時代であったから鉄屑となって酒代にでも消えたのであろうか』と、口さがない人々の話題になったこともある。
この額は、当時を知る人のなかでも「常盤通側にのみあった」「本町側にも(もう一つ)あった」と、額が1枚であったとの説と2枚あったとの2つの意見があった。筆者や筆者の周囲では1枚説が主流だった。
平成17年5月31日付け北海道新聞に、『「旭日章」外しました』という、旭川市川端の渡辺鉄三郎さんの記事が掲載されている。「1945(昭和20)年10月、とび職をしていた10歳年上の兄が、『進駐軍が旭川にくるので取り外してくれ』と頼まれ、家族六人で手伝った。作業は雨の降る昼間に行い、橋の上部の両側に掲げられていた『旭日章』を手巻きウィンチでつり上げて取り外した」とある。渡辺さんは「額はボルト12本で留まっていた。ボルトは外していく途中で額が傾き、当時走っていた路面電車の電線に接触して電車がストップした。取り外した『旭日章』の額2枚は馬車に載せ、旧旭川土木現業所(現旭川開建車庫)に運んだ」と振り返っている。
旭川開建には、「49(昭和24)年10月ごろ、旧土木現業所に二枚の額が立てかけてあるのを見た人がいる」との情報が寄せられている。しかし、その後の行方は不明。「2枚あった」というのが正解だろうか。
              文/旭橋を語る会 会長(当時) 関根正次

北海道経済2012年6月号


軍人勅諭が掲げられた旭橋
旭川実科高等女学校卒業記念アルバムより

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