2024年パリ五輪男子バスケ、日本対フランス戦から審判制度について考える
「アンスポーツマンライクファウル」に習い、「アンスポーツマンライクジャッジ」のようなものがあっても良いのではないか?
パリオリンピックが終わった。
今回の五輪で初めてバスケットの競技に「アンスポーツマンライクファウル」というものがあることを知った。
とても良い制度だと思った。
ここ何年も、スポーツを真剣に見ていなかったので、先日のオリンピックのバスケの試合を観て、当たりの強さに圧倒された。
特にファウルで体を飛ばされたり、転がったりしてる選手の姿を見て、驚いた。
私はファウルを誤解していて、ファウルは全て悪いものだと思っていたのだが、解説を聞いていると、そうではないらしく、
ファウルには役割があり、ファウルを使って相手チームの攻撃の流れを止めたり、時間を稼いだりすることが出来ること、ファウルを上手く使うことはゲーム運びにおいて重要だと知った。
逆にファウルをもらいにいってフリースローで得点を決める。という事もしていてすごい技術だな、と思った。
体がぶつかる競技というのは、それ自体が醍醐味ともなっているのかもしれない。
でも中には見ていると、何というか悪質で、怪我をしてしまうのではないかと感じるプレーもいくつかあった。
だから「アンスポーツマンライクファウル」があることでその抑止力になるのだったら、その制度はとても良い制度だと思った。
「アンスポーツマンライクジャッジ」のようなものの必要性
「アンスポーツマンライクファウル」については、定義など色々書かれてはいるが、要は選手を不必要な怪我などから守ると共に、バスケットという競技そのものを守る為にも、両方の意味があって導入された制度なのではないだろうか。
一方で、それをジャッジする審判はと言えば、
その審判のジャッジにより、バスケットという競技自体が侵されるていると感じざる負えない場面が何度もあった。
バスケットの選手と競技を守るための「アンスポーツマンライクファウル」が、逆に、審判によって悪い意味で利用されてはいないだろうか。
「アンスポーツマンライクファウル」をジャッジしてる審判自身の行いこそが「アンスポーツマン」のように感じることがある。
その点が置き去りにされてはいないだろうか。
オリンピックの誤審について調べていく中で、バスケットだけではなく、今大会以前から過去にも色々な競技で故意だと言わざるを得ないジャッジが繰り返されていると知った。
観ている人達の多くが理解に苦しむジャッジが繰り返され、なぜ改善されず放置されているのか。
あまりにも続くようならば、審判の誤審にも「アンスポーツマンライクジャッジ」を導入しても良いのではないか。
それは競技を守っていくためにも、選手を守っていくためにも、オリンピックの存在を守っていくためにも必要なのではないか。
本来、審判の仕事は公正で神聖なものであったはず、今回の審判のジャッジには危機を感じる
もちろん、人間が行うことなので審判だって間違える事はある。
しかし、その間違えに気づく為に採用されているビデオ判定ですらも、既に審判が公平な目を持っていないのならば、意味をなさない。
いくらビデオ判定で確認しようとも事実とは違うファウルを取られたり、またその逆をされたりもする。
今回のフランス戦では、呆然とし、酷く憤り、そしてただただ悲しかった。
選手は誰が守るのか?
間違ったジャッジをされ、退場させられた選手は?
審判が間違った事をしてもペナルティは無いのか?
審判だけが守られるのか?
審判として、誇りを持って公平にジャッジをしている人と、
そうではない人、つまり故意に間違ったジャッジをする審判が混在しているのではないか。
選手ではなく、審判が試合を作ってはいないだろうか。
今回の試合を見ていて分かったことがいくつかある。
選手たちが全身全霊で競技に臨んでいること。
バスケットという競技がめちゃくちゃ面白いこと。
そして、
審判はジャッジにより競技のゲームの流れを壊すことができること。
審判はジャッジにより選手の気持ちや思いを壊していくことができること。
この故意のジャッジがとても危険なのは、見えない所を壊していくからだと思う。
審判が選手に怪我を負わせたわけじゃないし、見えずらいけど、非常に大事な所を壊してくる。
正直、ブラジル戦で、フランス戦の時と同じ審判の顔を見て「またやられるのか」と試合が始まる前に思った。
フランス戦で味わった、あの無力感を試合前から既に感じてしまった。
ここら辺で、選手も観ている人もみんながフェアだと思う制度、その選手も競技も守られる制度が必要なのではないか。
そろそろ故意的な審判のジャッジを抑制する新たなルールを作るのに必要な時期に入っているのではないか。