えびすかい
久しい前回の続き。
前回を読んでくれたら今回がわかるので前回は読んで欲しい。
高校卒業して私は親のコネで鉄道会社に入った。その時の私は井の中の蛙と言っていいほど、世間を知らなかった。駅に配属された時には初出勤では時間ギリギリに着くわ、朝に起きれない事が続いて寝坊を繰り返してしまうわ、挙句の果てには遅刻して「お前帰れ」って言われてホントに帰るわ、人間関係に躓いてばかりでした。とある朝に体を起こせない位に胸が痛くなった事があった時は嫁が大学すっぽかして新潟から神奈川までその日で来てくれた。自分を責め始めてしばらくして親と比べられる事に嫌気が差し始めて親の事が嫌いにもなってた。親が昔に入社しており指導車掌までしていた事があったから親を超えるために電車運転士になる為に入社したけども、20歳を超えた次の春頃に自社路線で線路に身を投げ出そうとして自殺をしようとしたことがある。結果的には今生きてるので大丈夫だったけども、当時は今と比べて凄まじくメンタルが死んでいた。
新潟から飛んできた今の嫁と一緒に病院に行ったら案の定うつ病と診断された。まぁそうなるよね。目標があまりにも大き過ぎる。その時も親父が会社に居たらもしかしたら社長並に尊敬されている現場長とかになってたかも。でも、自分の思い通りになったら飽きちゃう親父だった。そんなビッグな存在を追いかけてた。むしろ私は入社式に抱いてた「代表取締役になってやる」って気持ちもあったのよ?でも自分が押し潰されてしまった。そう思ってしまうのは私が本気に挑む姿勢を持ってたからでもある。仕事には妥協したくない。その意思故ではある。うつ病と診断されてからは働けずに寮で休職してたんだけども1回だけODした事があるのです。自分を責めすぎちゃってどうしようもなくなって、「これで死ねるなら!」ってそんな勢いで。意識を失って2日位経ってた。多分液体にしたら効率が良いって思い水に溶かして250mlくらいしか飲めなかったけども錠剤にしてたら1週間とか意識失ってたんじゃないかな?まぁ失敗に終わって今の嫁に連絡したりAと連絡したりしたんだけども心配をしたのは今の嫁だけだった。Aは心配をしなかったし怒りもしなかった。「うつ病なんかになってんのかよ頑張れよ」って言われて心が苦しかった。それ以降連絡は避けた。そこで心のよりどころを一つ失った。久しぶりに実家に帰省してその時に色々報告したら、お袋に土下座されてなんか申し訳なくなった親父とは顔を合わせるのが怖くてまだ口はかわせなかった。
生活費もしんどくて寝るしかやること無くてPCはあったから試しに配信したらどうだろうと思いし始めた事がある。後々思うとそこで配信してなかったら今の私は居ないなって。配信では今ではタブーな事をした事もあってすぐ辞めたんだけども、配信と言うのがもしかしたら今後大きなものになるかもとは思ってた。転生して艦これをして麻雀をしてたらとあるコミュニティで配信の企画の一人になった。麻雀はそこまで打てなかったけども、そのアプリの癖みたいなのは掴んで居た。結果的にそこは1年しないで去る形になった。「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない私はそれ以降は言うようにしてくれと一言言われて去り、私はそこから駅員に復職した。
仕事を復帰してその駅ではあまり良い扱いはされなかった。かなりしんどい物もあった。めっちゃ叱られることもあった。しばらくして車掌の登用試験の時期になり、試験を受けたら合格した。その会社で始めて「既往症に精神疾患を持っている人が乗務員になった」と言う事例を作った。首都圏住んでる人は知る、電車は赤くてその路線が止まると学校は殆ど休校になるダァシエリイェスの会社。
私はここまで長かったと思った。教習所に通って「親父の事はよく知ってるぞ」と言われたけどもその時は大丈夫だった。ある程度自分の中で受け止められる様になってきたから。「お世話になっております」位の勢いだった。机上教習が終わって実務教習が始まった。師匠は私の親父の筋になってたんです。その時の助役の力だろうなぁ。あの人ならしかねないなと思いつつ、頑張って師匠から仕事を教えて貰った。途中、辛くて辞めたくなる気持ちもあったけども、運転士になる目標がまだあったから私は我夢者羅になった。独車試験では指摘事項はちょっとあったけども、シミュレーター試験では指摘事項なしを頂いた。完璧にこなしたって事で自信がついた。独り立ちして業務をこなしてお金も安定してきた所で今の嫁と入籍した。入籍日にUVERworldのクリスマスライブにも行った。一応入籍の前には親と仲良く話す事もあったんだよ!これからは嫁を大切にしてこの会社でいきたいと思った。
だが、乗務中に転換期が来た。
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