全員どうかしていふ

モミジは死にものぐるいで山を降っていた。獣道を突っ切って枝が蜘蛛の巣のようになってモミジを襲った。ぱしん、ぱしん、森から折檻を受けて、赤い筋が大小問わずモミジのふとももふところ問わず着崩れた着物を掻きむしって傷跡を刻んだ。

草履は選ぶひまもなく男物を履いてしまった。大きすぎて、足元をおぼろ。

しかし、モミジは転げ落ちるもどうぜんに森を一心不乱に下山していき、逃げた。

なにから?

「おとう、おっかぁ、よしお、もうバケモンになっただ? か!?」

頭よりも高く生えた草むらを掻き分けて、モミジはつっと面をあげてそらを見た。満月に灰色の闇が散らばる、まだらな宇宙だった。

咆哮がきこえてきた。ケモノのさけび。モミジの家があった、山頂から響いている。

「どぉかしとるわほんに、皆、どうか、頭イッチまってまーあ、まあ、まあ」

肩で息をしながら、ふるえた。山の漁師である父が珍しいものを採ったと人間の手と胴体と頭を籠から出したところから、気が狂っていた。

『モミジ、人魚の肉ちう、滋養ある肉を知っとるか? 上半身はヒトで下半身が魚の怪物じゃそうで、ほれこいつ、魚の革を着ておる。今夜は人魚鍋や!』

『むぐぐ……!!』

猿轡をかまされている鍋の具が、苦しそうにあえいだ。

おっとう、おっとう、人魚は山で採れるもんじゃなかよ。そいつはよく知らんが魚の革を服にしておるだけの単なる男では? モミジが顔面蒼白になって訴えても、家族は、取り憑かれたように、『人魚?』『人魚!!』目の色を変えて魚革の男に向かってよだれをたらした。

モミジは、あとずさった。

鍋がはじまる。

だから。だから、すきを見て、家を飛び出してモミジは出ていくことにした。行き先があったからモミジは狂った家を逃げ出せた。

山を掻き分けて転がって、鍋になった男の断末魔に肝を凍らせながら、やがてモミジは山の下の川に出た。

口笛を吹き、懸命に呼びかけた。モミジガいつだか栗狩りをしているときに、栗の食い方について聞いてきて、以来、モミジと友人になっている怪物が口笛をきいて、来た。

長髪の男にして、服をきずにつるんとした腹を晒して、つるんとそのままウロコを生やした半身をもつ半人半魚の奇っ怪な美男であった。

川瀬に寄りながら「どうした?」と彼は鷹揚にしずかな声でたずねた。

「モミジ。ボロボロになって。そんなに必死になって私に用があるのか」

「タロウさん、わし、わし、人魚になる。決心がついた。ここ捨てるわ、山を出るわ、わしゃタロウさんについて海に行くわ」

ひと呼吸でうわっと叫んでモミジは川瀬にへたりこんだ。美男が、川に魚の半身を漬けながら、物珍しそうにモミジをあらためた。

「求婚を断り続けてここに今日、とうとつにして突然だな。モミジ、何かあったのか?」

「知らんがな! わしゃ知らんが、知りとうないわ」

「そうか。だか後戻りはできないぞ、モミジ」

「ホンモンの……、人魚お、知ってるんはあたしだけ。食うなんてとんでもない。わしゃもうイヤ、海に、海に連れて行ってくれ!」

「わかったぞ」

美男の人魚は人間そっくりにかしこばる。やおらモミジの肩に触れて抱き寄せて、口吸いをはじめた。動物がじゃれるような。

そうして、怪物美男は牙を剥き出し、モミジの肩に食らいついた。川べりに絶叫がこだまする。怪力で両肩を縫い止められたモミジはもう逃げられず、肩からボリボリと喰われた。モミジは逃げられなかった。

どこにも、逃げ道など無かったのである。

海にいけるだろう。怪物人魚の一部になって。人魚が人間を食うことを、ニンギョたちは嫁取りと呼んでいる。それこそ、ヒトだってニンギョを食いたがるのだからニンギョだってヒトを食いたがっているのである。

滋養ある、長寿の良薬として。

モミジはもみじ肉の薬となり、ニンギョの嫁になり、山を去った。とうに全てがすべからく狂っていたのだった。


END.

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海老かに湯
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