マリーン・怪談・スタイル
海に行く者たちは不思議な、信仰を、もっていることが多い。船に女をのせるな。縁起がわるい。船でけんかをするな。帰れなくなる。船で……。
「異義があるな」
論文をしたためようとする若者はふり返るが、誰も見えなかった。
しかし、声は耳から脳へと届いた。
研究にやってきた瀬戸内海から、波の音も静かに聞こえる。真っ暗らい海から流されるそれは、帆をはったヨットで浴びる春風のように爽やかで、ねっとりした湿っぽさはない。
深夜の、怪異には、そぐわない鈴色の美声であるのだつまり。
声がする。
「最後のそれ。無関係だな。マーリンマーメイドをなんだとおもっているのやら。古のセイレーンともちがって、だからこそ漁師どもと戦わず、こんにちまで生き残ってきたのだ。妾たちに死は無縁であるぞ? 最後、その死、海に出た男どもがけんかをして? それがなぜマリーンの生物の責になる? それはな、」
「海の男たちが殺し合いをして、船から海に突き落としてるから……」
「知っているなら、なぜそう書かない」
「…………失礼になるじゃないですか、フィールドワークさせてもらってるのに、そんなことを書いたら」
「ふむ。妾たちが、人殺しをしたいと願うときは」
「ごめんなさい」
深夜の寝室でそくざにノートパソコンを閉じて青年は土下座をする。
顔をあげると、磯の匂いも春風も消えていて、すべては幻覚とおもわれた。ただ、全身は冷たい脂汗でびっしょりだ。
少し、だいぶ、考えてから、青年はノートパソコンを開き、別の文書ファイルを新規作成するに、至った。
提出された卒論に、当たり前だが、教授がまっさきに文句をつけた。
「瀬戸山くん。民俗学ゼミかな? 文芸サークルかな? ここは」
「ごめんなさい!!」
怪談の民話集になった、卒論を手にする教授をまえに、青年、瀬戸内はようやっと本当に土下座ができた。
べつに、めでたくなく、不幸であるが。
これこそが神罰であろうと瀬戸内雅はなぜだか信じられた。これは仕方ねーって。
やっと、土下座ができた。
ようやく、心から、安堵ができた、彼であった。
END.
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