ぶくぶく殺害の話

ぶくぶくと泡が集まっていた。ぶくぶくと泡がはじけて消えていく。はるか彼方の海面ではごぼりと音と泡が弾けて円形状におうとつができた。呆気なく泡はすべて浮上し、海には、なにも残らなかった。

人魚姫の最期である。
泡になり、魂すら残らずに消滅した。

翠禹春賀にものごころがつき、いちばんはじめに涙した物語は『人魚姫』だった。自分の命が助かるのに、王子が愛しくて、自分のために王子を刺殺できなかった彼女を憐れんだ。なんて悲しい物語だろう。

しかしながら成人して、社会人になって、数人の男性との恋愛を経験して、春賀はふと人魚姫で得たトラウマと涙を回想した。
哀れな悲しい物語――。
(ほんとにそうかな?)
(たんに、バカなだけじゃない?)
(悲劇に酔って。自分に勇気がなかったのを、思いやりだとか優しさとかに言い換えて耳ざわりだけをよくして。意気地無し。王子を殺すかわりに自分が死ぬだなんて献身したって、当の王子はなんも知りゃしない。これって愚かな女の話なんじゃないの?)

ぶくぶくと、不満と怨念が渦巻いていた。春賀の体内で熟成されたそれらがマグマの噴火口が煮えるようにしてごぼりと音を立てる。
春賀は、結婚した。しかし、夫は結婚して数ヶ月もするとガラリと人が変わって、家事も炊事もなにも手伝わなくなるし、乱暴になるし、春賀をまるで召使いのように使おうとした。「おい、おまえ。メシまだかよ、ざけんじゃねぇよ。こっちは遅くまで働いてるんだぞ!!」

パートタイムとはいえ、このご時世であるので、春賀も働きにでている。夫が主張する、夫の母親がやっていたような『完璧な家事』など到底、できない。それでも夫は主張する。結婚して数ヶ月で関係は破綻していた。春賀は知らない男と結婚したようなものだった。

一年目の冬に、春賀の手には、包丁がにぎられていた。暴力までふるわれて春賀の腕や足には青あざが目立つようになってきていた。早朝5時に起きて、疲労困憊のからだを引きずって、節約のために夫の弁当をつくろうとした。冷凍食品は怒られるのですべて手作りの品にせねばならない。その青ばんだ朝、春賀は、ふと人魚姫を思い出した。

ぶくぶくと、不満と怨念が渦巻いていた。春賀の体内で熟成されたそれらがマグマの噴火口が煮えるようにしてごぼりと音を立てる。


春賀は、包丁をにぎりしめた。

「嫌だ」
誰にともなく囁く。包丁を手にしたまま春賀は夫のベッドルームへと進入する。そして人魚姫の悲劇とはことなる、惨劇が起きた。

警察の事情聴取にて、翠禹春賀はぽそりと言った。「人魚姫になんかなりたくなかったんです」
あるいは、人魚姫の童話なんて知らなかったら、結果が違ったかもしれない。



END.

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