濡れた女のひと
「うおっ!」
ロードバイクの先頭を強引に曲がらせて、接触事故を避けた。古里児石はとある港町に住む青年で、早朝のサイクリングを日々の楽しみにしていた。愛車とともに、観光客の車がない早朝四時に、海ととなりあう車道を好きなだけ疾走するのが好きだ。春夏秋冬など気にせず潮風を浴びて、どんな季節でも朝靄のにじむ日の出が好きだった。
が、さすがに真冬ともなるとロードバイクはシーズンオフだ。児石は専用のウェアに、普通にダウンコートを着てマフラーも巻いて、腹にはホッカイロも貼って防寒対策ばっちりにしてペダルを漕いでいた。
そんな矢先の人身事故だ。正確には、人身事故未遂。
避けたはずが、相手の方がよろめいて海側の道へと倒れるので、児石は自転車を道路脇に寝かせて慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか! 転びましたかっ?」
「――――」
亜麻色の髪を腰まで伸ばした、女性だ。うつむけている顔立ちがえらく整っているのが、前髪のすき間から垣間見える肌と瞳の大きさだけでうかがい知れた。驚くほど目の色が青く、青々と澄み渡っている。そして肌は白い。この12月を前にした季節に、薄手の白いワンピース一枚で奇妙だった。それどころか、全身がびしょ濡れで、頭からバケツを被ったあとの様子だ。
児石は視覚情報のすべてに心臓をバクバクさせながら、あたふたしてスマホをタッチする。救急車を呼びます、言うとすぐに、女性が顔を上げた。
はっ、とするほどの美しさ。
美女だ。
濡れているせいか、大きな目玉がうるうるした。艶やかな虹彩をふんだんに光らせて、真っ青な眸子をにぎやかに輝かせている。彼女は、くしゃみひとつせず、凍えもせず、声色はしゃんと凜としていた。
「自転車、好きなんですね」
「えっ!?」
児石が絶句する。
こんな場面で、こんな質問。
とんちんかんだ。数秒ほど固まるが、美女は同じテンポで同じ質問をするので、頷いた。美女は、ゆぅっくりに相好をゆるめて、これまた可憐な花の芽吹きのように凄艶に微笑んだ。
「よかったら、うしろに乗せてもらえませんか。毎日、走っています。楽しそうで……」
「あ、経験者なんですか?」
「はじめてです」
はい? 言い返しそうになるのを、なぜだか躊躇う。
この美女に通常の言語は通じない。なぜだか、肌がそう実感する。児石は戸惑いがちではあるがロードバイクを起こし、朝靄にまじって寝静まる港町を見渡した。車の気配はない。第三者の気配も、ない。
「いいですけど」
あとから思えば、無謀な了承だった。しかし、このとき、児石はすっかり美女にあてられて、彼女のたっての望みを聞いてあげたくなっていた。彼女は無垢な赤ん坊のような瞳をより光らせて、はしゃいだ。
「ありがとう」
「えっと、じゃあ……、サドルにどうぞ」
「さどる? さどる」
「ここです」
ロードバイクの座席でもある、三角形のサドルに手を置く。びしょ濡れに濡れている彼女は、遠慮せずにそこに腰を置いた。
その手前に、児石がまたがった。
「あ、あの、俺の体をちょっと、つかんでもらってていいですか? 安定すると思うんで」
「はい」
従順に返事がきて、児石の腰にぎゅうと濡れた白い手がまわされる。児石はのぼせあがって体感温度が一気に跳ね上がった。サドルに濡れた美女を乗せて、自分は手前に無理やり身体をねじこんで、立ち漕ぎだ。こんなバイクの乗り方は初めてだ。
不安よりも、不思議なことに児石はまるで誉れを受けたような高揚感が上回る。
ロードバイクを走らせると、美女の神々しい亜麻色の髪が後ろになびき、雨だれのようにして濡れたあとが車輪の模様になって車道にこびりつく。児石は一生懸命にペダルを漕ぎ、ロードバイクのふたり乗りをやった。朝靄が濡れていて、腹の前までまわっている濡れた手が意識された。このひと、寒くないのだろうか?
疑問はあるが、やはり児石は興奮していた。後ろに目を忍ばせると、美女はひどくうれしそうにはにかんで、赤く染まりはじめる海岸線を見つめている。感慨深げなひとりごとが彼女のうつくしい唇から漏れた。
「とっても、速い。はやい。楽しいです」
「よかったです」
児石は気の利いた口説き文句がいえない自分をじれったく思った。
海が途切れる前に、美女が声をあげた。降ります。ありがとうございました。非常に丁寧な言い方で、まるで貴族か、高貴なプリンセスか、王族のような話し方だ。
ロードバイクを停めると、ゆぅっくりに腰をあげる。児石も彼女の全身が乾きだしていることに気づいた。濡れて貼り付いていたワンピースが浮き、腰までの亜麻色の髪がふわりとして、肌色は透き通った白さがさらにきわだった。児石は美女に見惚れてしまいながら、なぜだかお礼を口にした。
「こちらこそありがとうございました」
「ふふ」
美女が、白い前歯をのぞかせる。しずしずした足どりで、海辺へと歩く。茜色に陽が射して、赤光が海面を焼いている。海のほか、なにもない場所へ向かって歩いている彼女は、奇妙だ。
奇怪なことに、彼女に見惚れていたはずの児石がハッとすると、いつの間にやら彼女の姿は見当たらなくなっていた。目の錯覚としか思えず、驚いてロードバイクを寝かせて、バイクシューズのまま砂浜に走った。病弱そうだったから、倒れているのでは。と考えてのことだ。
しかし、彼女の姿はなかった。
やや遅れて児石は思い返す。ばしゃん、と、大きな水音がさっき聞こえたような……。そんな気がする。ちょうど、名も知らぬ美しいひとを見失ったときぐらいに。
太陽が昇ってくる。児石はしばし、呆然と陽を浴びるだけ浴びた。
海面は穏やかにして清々しく、潮風が届けられた。一メートルほど先であわぶくだった波が寄せた。
その後も、児石は毎日の日課としてこのサイクリングコースでペダルを漕いでいるのであるが、不思議な美女と出会えたのは、この1回こっきりだ。
END.