ヨットレースが大好きなピーギー

本来の名は、もっとながくてもっと複雑で、人間には発音できないし聞き取れもしない単語を含んでいる。過去、数回だけ船乗りなどの人間に出くわしたことがあるから、その怪異は、自分のことは「ピーギーと呼んで」とあらかじめ告げるようにしておいた。

名のはじまりの母音と、終わりの母音を拾ったものだ。

「ピーギー! やぁ。今日は日光浴してる?」
「サトル。そういうお前は、こんな早朝からなにをしている」
「や、日の出でもおがもうかと」
「儂も同じじゃの」

ヨット乗りの青年と出会ってから、五年は過ぎた。彼は、はじめは大学生とやらを名乗ったが、今は企業というのに就職して、働く合間に趣味のヨットを嗜んでいる。昔やっていたヨットレースとかいうのを引退してから、ピーギーとの逢瀬は、実に、おだやかなものになった。
昔のように、レースをしたり、疾やさを競ったりなどしない。昔のように、利かん坊のように、意地を張り合ったりはしない。

海に揺られて、ピーギーがつきでた岩礁のうえで休んでいる隣にヨットを停泊させて、彼は読書などにいそしむ。ピーギーは食指が動くことも、食欲がわくこともなく、この人間の男とともにそこにいた。

たおやかな、贅沢な時間だった。


ピーギーはこんな人間ははじめてだ。青年にしたって、人魚なんていう半身人間半身魚の妖怪と出会うのははじめてだろうし、友人になっているのもはじめて。一匹と青年のはじめてがひっそりした足跡を人類史に刻む。
なぜだか、名も知らぬ相手に祈りたくなるような気持ちになる。ピーギーが自分自身に不審な感情を抱き、これを相談すると、
「ありがとう、ピーギー。僕との時間をそんなに尊く思ってくれて」
と、青年は言った。


青年は痩せぎすのモヤシ体型で、ピーギーは豊満な乳房にちょっと段のついた腹にぶっとい魚のしっぽ。足して2で割ればそれぞれの種族の標準体型といったコンビだ。凸凹だがぴったりとした2組だ。
彼女と彼は、はじめて会ったときから、体の欠点など気にしなかった。その瞳にきらりと輝く、知性のきらめきがお互いに気になった。

「わー。日の出だ。美しいね、ピーギー」
「そうじゃのう」

ピーギーは、知っている。

ここにいるのは。岩礁のうえで日の出の朝日を浴びにきている人魚は。もう以前の、遭遇した人間を海にむやみに沈めて遊んだピーギーではなくなって、ただの、一匹の恋する魚にすぎない。ピーギーは彼に会うためにここにきた。彼も、ピーギーに会うためにここにきた。
しばらくヨットに揺られながら日の出を眺めていた青年が、腰をあげた。ヨットの帆をひろげた。

「なんだ、帰るのか? もう?」
ピーギーは鼻白む。半分、拗ねた声だった。

「今日はフレックス出社にしたんだ。もうそろそろ、帰らないと」
「ふれっくすぅ? 人間とこんなに話すのは200年ぶりだが、そのような単語ははじめて聞くぞ。人間社会も難儀よな」
「はは、それを言ったら。不老不死なんだろう? ピーギー。そっちのほうがずっと大変そうだよ」

肩をすくめて、彼はピーギーを気遣う。こんなところも彼がピーギーを虜にした理由だ。「今度は、お菓子でも持ってくる。明日から僕は出張なんだ。次は週末になるよ、ピーギー」
「おう。しゅっちょう、か? 人間は、短命のわりにいつもあくせくして、まるで『蟻』じゃな」
「蟻を知ってるの? ピーギー」
「砂浜にも蟻は住んどるぞ」
去りゆくべく岩礁をはなれるヨットに、かすかな溜め息を吐く。

今日はもうこれで終わりか。胸に衝き上げる、無念の感情が、自分にはもうおはちがまわってきたことをピーギーに告げている。
ヨットが見えなくなる前に、ピーギーは波間へとダイブして、シャチのように俊敏に泳いで、ヨットの先端部へと追いついた。青年がヨットレースの選手だったころ、このようにしてよく、レースの練習をしたものだった。

どうした、ピーギー。いつも通りの彼のよく通る低い声。

それに、浅瀬ができたように切なく淡泊に微笑んでみせるピーギーは、運命を告げなければならない。もはや、潮の流れが喉仏まできている。潮流はとうに変わった。

「人魚はな。不老不死じゃが、人魚以外のもんに懸想すると、泡になって消えるんだ。そう決まっているんだ」

「え――?」

「儂、お主のことが好きだ。お前とのヨットレースは、この世でいちばん楽しいことじゃった」

言っているそばから、ピーギーの太っちょの尾ひれが泡になって沸騰する。こぼこぼと音を立ててピーギーは泡ぶくに包まれる。見方を変えると、それは、彼女を不老不死の呪いから解放した瞬間である。同時に、不老不死の悪鬼を退治した瞬間でもある。
だけれど、サトルは必死になって名を呼んだ。ピーギー? ピーギー!!

手が伸ばされる。
泡になりながら、その手は彼女に握り返された。
「好きだ、サトル」
告白を最後に遺して人魚は泡になった。

瞬間。これは、美しくも儚い、残酷な悲劇。ヨットレースの選手だった男と、齢800年のかつては妖怪として瀬戸内内界を混沌に陥れた、邪悪だった人魚との物語。童話そのものの人魚姫となって太っちょピーギーが消える。

ヨットに残された青年は、右手にのこる泡ぶくに涙を流し、ヨットをがバランスを崩すのもかまわずに左側のへりに縋りついた。膝をつき、号泣する。

朝日が、暁光が、赤く赤くあざやかにヨットの帆に宿り、そこをルビー色に輝かせていた。




END.

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