今日から不倫
「それって私に愛人になれって言ってる?」
ミハルが目を瞠らせて厳に頬を引き攣らせる。いつものカフェの奧のソファー席で、いつものように向かい合わせて座っているのは、大学生時代から交際してきた、一学年年下の三藤春行である。
顎がほそく、鼻梁は低くておでこがせまく、典型的な日本人顔をしている。しかしこれらは春行にとてもよく似合って、ながめに後れ毛だけが肩にかかる彼の艶やかな黒髪とあわせて絵になっていた。服も、明治時代の書生さんか、というくらいモノトーンで地味なものを選ぶ趣味があり、今も黒い外套に白シャツにブラックグリーンのチノパンで、革靴。クラシックで上品な出で立ちだった。
春行は、珈琲の水面に目を落としながら、首肯した。
「うん」
「それって――」
胸がむかむかして、なにか、キツイことを言ってやろうとするが、ミハルはだけれど声がそれ以上でてこない。絶句している。
「うん」
春行が、暗い面貌にさらなる影を差した。俯き、1人で相槌をうつ。ミハルはまだなにも喋っていないのに。
「みはるちゃんの会社に、うちの父さんの会社から融資ができるよ。話をつけたんだ。でも、俺は父さんの決めた許嫁と結婚しなきゃならなくなった。この間、その許嫁と両家一緒に食事をしたんだよ。その女性と2人きりになる、お決まりの時間もあってさ。そうしたら、その子も長年付き合っている男性がいるんだって。俺たち、同じだねって話をしたんだ。会社をもっとおおきくして安定させるために、人身御供にならなきゃいけない。結婚、承諾してきたよ。向こうさんも承諾したから、近いうちに結納式がある。でも、俺がお願いしたんだ。付き合っている男性とは別れないでくれって。俺たちは俺たちの人間関係を維持したまま結婚しようって決めたよ、彼女と」
「――それって――」
「うん。契約結婚っていうのかな。公認の不倫相手のこと、なんていうのかな。よくわからないね」
「あんた、ハーレムでも作る気か?」
「あ、そうとも言うかな?」
いつもの軽口に乗っかるノリで気安く春行が歯を覗かせた。クスリと笑うその仕草は上品で、たった今、ふしだら混沌きわまる提案をしてきた、淫らな舌先と同じ口内に収まっていることが、うそのようだ。
「あんた、冗談へたすぎるけど。これって」
「残念ながら。ね」
「…………」
ミハルがまたしても愕然となって顎を下に落とした。唇が開けっぱなしになった。
春行は、カフェのテーブルに両肘をのせる。おおきくてごつごつする、男性の手指を組み合わせてそこに自らの顎を近づけた。
思案の海に沈むようにしながら、黒い双眸は、ミハルをずっと射抜く。
「で、どう? 返事はどうかな」
「いやだ」
「よく考えて、みはるちゃん。ほんとによく考えて。君の父親、母親、妹に弟にペットのわんちゃんと猫ちゃんのことまで考えて。最悪、俺のことは考えなくたっていいから、みはるちゃんは、みはるちゃん自身とみはるちゃんの大切なひとたちの今後のことを考えて」
静かな、それでいて波の引き潮を思わせるリズムのある声の抑揚。春行はやっぱり上品な男性だった。
珈琲を、ひとくち、飲んだ。
「よく、考えて。ほんとに。みはるちゃん」
「――――」
胃がどぎまぎして、吐きそうな気持ち悪さが胃液とともに喉に上昇する。ミハルは黙りこくって、揃えた膝のうえに両手をおいて、そのこぶしが震えているのを呆然と見下ろすしかできない。
いつものデートのつもりで、裾だけ広いマーメイドラインのスカートなんて履いてきて、春行の身なりにあわせて上品にクラシックスタイルのブラウスなんて着てきた。春行は、このところ忙しいとラインしてくるから、会ってデートをするのは2ヶ月ぶりだった。
だから、マーメイドスカートも、ブラウスも、新しいものを買った。久しぶりだったから。
実家の会社は赤字経営で今にも潰れそうだが。それはそうとして、ミハルは別の会社で働いているし、だからこそ貯金もしなくちゃと、毎日、もやしやらキャベツやらを食べて生きている。でも今日は、久しぶりに大好きな春行に会えるから。今日は、だから、だから――
ミハルが真っ青になって、震える指先を唇にかけた。吐くのをすんでのところで我慢した。
春行が、相も変わらずお上品に澄まして、大好きだった声とその顔で、やはり、脅迫をする。
「条件を飲むしかないよね。皆が幸せになるために、これしかないよね。みはるちゃん、勘違いはしないでほしい。ずっとみはるちゃんのことを考えてそれでこれがいいと思ったんだ。君の大事なひとを皆、助けられる。俺たちも交際を続けていける。ゴールは、なくなるんだけどね」
「はる……ゆきは……。それで、いいの?」
「勘違いはしないでほしい。みはるちゃんのために、生贄になることにしたんだ。だから頷いて」
「そ、そんなことって――……」
そんなの、ひどい。
非人道的だ。
直感的に思うが、だが、春行に言われている通りにミハルも必死になって頭を働かせていた。皆が、ミハルの好きな皆が幸せになる方法。実家の今にも潰れそうな会社経営。実家で一緒に育った妹と弟。実家のペットたち。皆全員、お金がかかる。生きていくにはお金がかかる。
「――――」
ミハルが、ぶるぶるっと、全身をわななかせた。春行は静かに、楚々とした淑女のようにしてこれを単に見て眺めている。
汗まみれになって、皮膚をしめらせながらミハルはこうべを垂らした。半分、泣きべそがまじった。それは仕方がないことだった。胃がもんどりうって抵抗しているが、これを意地で抑えつけて吐くのをやめさせる。
無言で、頭をうんうんとさせていると、春行は笑うときの筋肉を使っている表情になって、小首は傾げた。
「声にしないと。こういうことは、ちゃんと決めておこう」
「…………」
死んだ魚の目のような目が、春行をとらえた。
「わ、かった。わかりました。愛人、になる。今日から。私とあんたはもう結婚することもないけど今後ずっと付き合うし、不倫もする――」
「そう、そう。うん。そうだね」
「――これって――、あたしだけが、不幸じゃない?」
「そうなるかもしれないね」
春行の目が、残念そうにふせられる。でもね、と彼は続けた。
「みはるちゃん以外は助かるんだよ。考えてたんだけど、みはるちゃんの両親には僕がもう結婚することは黙ってて欲しい。そうすれば、そちらの家は文句ないよね」
「……母さんも父さんもあんたのこと大好きだから……。……あ、子どもは?」
「欲しいよ。もちろん。不倫で産まれててもなんもおかしくないだろ。妾の子、っていうじゃないか」
「あんた、あんたが言うな。そういう単語を」
「あ、そう? ごめん」
失言を素直に謝罪する、春行。
ミハルは大好きだった男の言葉にグサグサと串刺しにされまくり、風穴だらけの胃を抱えて、辛酸を舐めながらかろうじて呻いた。
「あんたのこと死ぬほど恨むわ、私、今後、もう絶対に……」
「そっか。――仕方がないね、それは」
残念そうに、素直に、これまた謝罪を口にした。春行は、清楚なお嬢さんのようにして、いつも通りに慎ましい態度をずっと保っていた。
「ごめんね。ほんと」
「俺なんかが、君を愛してて」
END.