ヒンギスの悪魔の森(ダークファンタジー)
懐かしい、故郷の蒸し風呂を思いながら、騎士は右腕をふりかぶって蔓を両断した。絡まり合った蔓がはらはらと左右に広がった。
行く手はいまだ先が見えない。
蒸し風呂ジャングルに、呼び声は落ちる。
「騎士どの」
騎士はそれを無視して剣をふるう。
蔓が落ち、枝が散り、葉が飛んだ。
「若き騎士どのよ。おお、麗しの大聖都エースマティーディより来られし聖なる若君よ。そちらはさらなる奥地と知っているか」
「無論!」
ふりむかず、揺れる稲穂と同じ色の髪を揺らして騎士は剣をふるった。
ちらばる汗に眼をほそめる女は、浮遊している。
白いとんがり帽子をかぶって白いローブをまとい、等身大の妖精であるかのような出で立ち。
ローブは、膝から足首、それより下にかけては半透明のヴェールとなっている。むんと暑いジャングルが透ける。
ジャングルの白い魔法使いの足下では、汗まみれになった半裸の男たちが、やわらかなヴェールをそれぞれ掴んで頭上へと掲げている。ヴェール担当でない男たちは、抱えた大きな葉を扇ぎ、主人に風を送る。
彼らは魔法使いにとって葦のような奴隷だ。このジャングルでは、日常の眺めである。
女を睨み、騎士が罵る。
「魔性のメスめ。魔法使いどのは、半世紀ほど知恵が遅れている。奴隷解放戦線を知らないのか!」
「外界の諍いなど、興味ない。つまらん客人になるのか、騎士どの」
「司祭さまより、大陸の全土に福音を授けてまわる使命をおれは授かったのだ。奴隷の解放は国土の意志である! よって、おれは貴殿を断罪するのだ!」
「知るか。ここは妾の国」
「奴隷を拘束し、すきにいたぶるなどもはや時代がことなるのだ。すべての命は平等である! 先ほどの橋に良心の呵責を感じぬのか貴殿は? 罪なき婦女子に手を繋がせ、肩をくませ、そのうえを踏んで歩けという! 人間を橋にする、家具にする、装置の歯車とする! なんという大罪かッ」
「妾の国だぞ」
奴隷たちが、低くうなって先を走りはじめた。
蔓を掻き分けてつくられた道を浮遊する魔法使いが通り抜ける。
「ま、まて、話はまだ終わっていないぞ」
「騎士どのは妾が説得されるまで話し続ける気だろう。なんと、つまらん男。今日はもうよい」
ジャングルの魔法使いは、怜悧な瞳をそらして暗く茂るジャングルのなかへと消えていく。
奴隷たちが、泥を踏みしめ草をならし、後に続く。
いくら叫ぼうと無駄だった。ジャングルの湿気は声を濡らし、ふやかし、溶かして泥へと押し込める。
「……くそっ」騎士が背負う荷物をおろした。ふきでる汗は拭う。
このような地獄の大地のうえで、奴隷として酷使される人々の煩悶と比べればこの程度は苦ではない。わかっていても、疲労した手足はもはや動かせなかった。樹木の根に実る桃の果実をもぎり、身の丈はあろうかという大きな葉をもいで寝床をこしらえた。
果実はみずみずしく、味わいは故郷にも植えたいと思えるほどに美味だった。ジャングルは豊かで、魔女さえいなければなんの問題もない、楽園のような熱帯の森である。
翌日。ふかふかの草の寝台に抱かれた騎士は、すっかり回復して再び剣を握った。はじめに着込んだ甲冑は道中で捨ててしまったので、今は、袖をまくったインナーの上下という質素な出で立ちだった。
汗がしみて、ごつごつしたラインの黒いインナーはシミがいくつも浮かぶ。
「騎士どの」
ふり返ると、寝床に使った草の影よりはじめてみる少女が頭を出した。
わらわらと大勢の少女たちが飛び出し、各々の手に握るヴェールを掲げた。騎士がはじめて聞く音がして、まるで世界が軋むような音とともに魔法使いはヴェールのはざまを抜け出した。
陶器のような色白の肌をにわかに色づかせて魔法使いはうっとりとしている。氷の瞳に騎士をうつし、騎士の肉体を見つめた。
「騎士どのは今までの殿方の誰よりも立派な肉体をお持ちじゃ。娯楽なき、完全なるこの密林。口はつまらないとしても、せめて妾のなぐさみはするがよい」
「……眼をなぐさめるだけでよいのか」
騎士は、喉を鳴らし、自らの驚く声をそこに封じた。
碧の眼を丸くさせるも一度きり。凜として背を伸ばし、司祭に誓うのと同じ厳粛さでもって胸にこぶしを当てた。
「ジャングルの魔法使い。ここにあるは戒律多き騎士の身の上。であるが、ここは監視の届かず完全なるお前の領域だ。このような領域は我が祖国も知らないだろう」
「何をもうしたいのか、騎士どの」
「おまえは悪しき魔法使いではあるが、今までの婦女のどなたよりも佇まいは魅力があると申している」
「ほう」
魔法使いの足下に伸びるヴェールが、さざめいた。
すでに言葉はいらなかった。ジャングルの女神は自らの肢体にまとった白い衣装をするりと落とし、全裸となったのち、魅惑の化身であるかのような脚線美を見せつけながら、つま先を服のうえに下ろした。
真っ白い衣装が決して汚れないように、少女たちが身を投げ出し、下敷きとなった。もぞもぞと蠢く生きるものたちの寝台。
「妾は、いちどくらいは女になってみたかったのだ……」
夢見る、いたいけな乙女のような魔法使いだった。
彼女の足の下から、生者の苦しみが、湯気のようにして立ちのぼる。彼女に踏まれた誰かが苦しむ。だが。
騎士は、剣を置いた。生者たちの寝台に手をつくかわりに手は密林の天井をめざして伸ばした。ヴェールの傍らに立って両手を捧げる騎士。ジャングルの魔法使いは、寝台に跪いてその手に頬をおさめた。
あとは互いが寄り合ってくちびるを重ねて誓い合うような接吻がまつ。
が。
「だましたなぁ」
絶叫がとどろき、美女はヴェールから転がって落ちた。
泥土につっぷす彼女を横目に、騎士は泥へと唾を吐く。急ぎ、荷から水筒を抜いて口を清める。万が一には自害を果たすべく、奥歯の間に毒が隠してあった。
白くなまめかしい肢体を泥まみれに、顔中をぐずぐずに乱しながら全裸の魔法使いがのたうちまわる。奴隷たちが集まって彼女の口に泥を詰めようとした。
くちびるから、血があふれだし、その血は黒く変色する。彼女は大きくふるえて泥に半分顔を埋めたまま、眼を見開く。そのまま事切れて動かなくなった。
「終わった」
溜息のなかに、騎士は囁く。
ところが騎士の予想だにしない混乱がはじまった。
奴隷たちが、ギャアアっと聞くにたえない悲鳴を放つ。一人は崩れ落ちて悲鳴をあげ続け、大勢はばらばらの方角へと逃げた。騎士は一人の肩を思わず捕まえる。
「どうした。君たち、君たちはやっと自由を手に入れたんだ」
全身を大きく震わせ、引きつけを起こした少女は答えられなかった。
ジャングルすべてに通るような大異変だった。
騎士の目の前で、みるみるとすべてが変わる。樹木は細っていき、蔓が黒く変じて垂れ落ちた。
「どうして……」
呆然と呟く間も変化は終わらない。
葉がしぼんで、からからに渇き、黒ずみのようになってから雨のようにちらばる。枯れ行くジャングルでは、潜んだ奴隷たちが見通せるようになった。発狂したかのように叫び、怯え、逃げ惑う。
騎士は荷物をひっつかみ、己が来た道をひた走った。
刻一刻と生命が引き上げるかのようだった。
芳醇な、満ち足りた、白い魔法使いのジャングルが変わって行く。
騎士が道すがらに出会った奴隷の橋も奴隷の家具も奴隷の歯車も、死に絶えていた。騎士は荷を捨てた。剣のみを握り、命からがらで走った。蔓を斬って邪悪な魔法使いによる支配を絶やすべく、乗り込んだジャングルである、このような結果はまるで見当違いだった。
茶色く枯れるジャングルが、外界の明かりによって影を生やしはじめた。出口だ。
そんなときである。影のなかより、灰燼が舞うようにして異物が浮き立った。人のかたちをしているが、肌はどろっと溶けて髪は黒くちぢれて眼のある部分は空(から)の空洞になっている。
ジャングルは今や枯れて果て、木は真っ黒く、大地は黒ずみのはびこる荒れ野である。
怯んで止まりかけるが、騎士は自らの背後の惨状に絶句する。
奴隷たちではないが、生きて蠢くものたちで満ちている。
這う芋虫のような、みみざわりな音で飛び交う怪獣のような。
変じた黒いジャングルの魔法使いが、喉をふるわせた波長によって喋った。
「妾の死がいに群がる、ウジやハエやダニだ。じきにさらなる悪しき獣がやってくる」
「……おまえは、悪魔だったのか?」
「ここは、妾の国だ。だが騎士どの、おぬしは去るがよい、妾の願いとともにゆけ!」
「……願い……」
騎士の胸が、ジャングルのように干涸らびた。
いたいけな乙女そのものであった魔法使い――、ほんの一瞬のきらめきが、今更ながらに胸裡に蘇った。
「もはやここは生者には無縁の大地。立ち入る者は誰であろうと殺す。それが死骸に集まる亡者どもの滋養となるのであるから」
だが、おぬしは去るがよい、嗄れた声で黒い魔法使いが繰り返す。
騎士はたじろぎ、その目にありありと後悔を浮かべた。
「この森は、魔法使いどのの魔法によって通じた貴方の体内だったのか」
「去るがよい」
騎士はよろめき、走り出した。
ウジやハエやダニが蠢き、新たな住家を喜んだ。
ジャングルは死んだ。魔法使いが死に、その体内に棲みつくすべてはともに臨終した。そして、これまでとまったく異なる生き物が、骸を苗床にして栄える運命があった。
ヒンギス地方に悪名高き、悪魔の森はこうして誕生した。
END.
読んでいただきありがとうございます。練習の励みにしてます。