貝か、人魚姫か? 恋の話だ。
オフィスでまったく喋らない先輩がいる。私とだけではなく、誰とも。頷く、返事、一般的な挨拶はするが、それだけだ。
私は、はじめ、こやつは貝かなと思った。
あさり。しじみ。ルーム貝。堅く閉ざして誰とも交流しない、学生時代なら一匹狼とでも言われただろう。しかし、ここはもう社会であって、学生気分でいられては困る。コミュニケーションも社会人の仕事のうちではないか? 私はそう思い、貝になる先輩はどうかしてると信じた。
しかし、今。
先輩は、誰かからの電話に出て、見たことがない色のスマホからの電話に出て、信じがたい穏やかな微笑みを口元に弛ませていた。母のような、父のような、それでいて子どものような。
やっぱりなにか会話をしているそぶりはない。相手の話を聞いているだけのようだ。
昼休みなので問題はない。
けれど、私は、ショックを受けている自分に動揺している。あの先輩は堅い貝なのに、あんな顔ができるなんて。
ふと、有名アニメの人魚姫を思い出した。原作の童話は知らない。昔、恋人と行った夢の国とか、広告などで、ヒロインを知っている程度。
へんな話だ。
私は、変なあの先輩の、なんにでもないのに。
顔見知り、オフィスでの仕事仲間ではある、というだけなのに。
鼓動がどくんと脈動している。昼飯の味がうすく感じられた。
私は、学生時代の恋を、思い出している。
もしかすると、私は、あの貝か、人魚姫のヒロインか、なんだかよくわからない先輩に恋をしていたのかも、知れない。
あるいは、今から、恋に落ちた……。
先輩はスマホをポケットにしまうと、食堂を立ち去った。
私は、すべてに取り残されて、そして手遅れである気がして、怖気にふるわされた。
この感覚。恋だった。
END.
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