山
「サイズが合うのがなくてすいません」
差し出されたダボダボのスウェットを着た。俺は気になってつい聞いてしまった。
「お一人で生活されているんですか?」
「ええ、主人が亡くなりまして」
表情が曇ったのを察し、それはお気の毒に。お辛いのに泊めて頂いてありがとうございます。もし、男手が必要な事があれば言って下さい。
「それでは明日、水を運んで頂けますか?」
女はそう言った。
「ええ、分かりました」俺は快諾した。
「今日はもう遅いですからこちらの部屋でお休み下さい」
「助かります。それではお休みなさい」
女が部屋を出たのを確認すると、俺は冷たい布団の中に潜った。温かくなるよら先に体温は奪われたし、亡くなった人間の遺品に身を包んでいる事が、疲れて眠たいはずの身体を緊張させた。目は閉じていたが耳を澄ましていた。定期的に水が跳ねる音がする。女は風呂に入っているらしい。こんな山奥に一人住んでいる事自体、さぞかし不自由に違いない。それを俺のせいで余分な水を使わせてしまったのだ。ついでに薪割りでもしたほうがいい。そんな事を考えている間に水の音が止んだ。襖がスライドして、閉まるのと同時にビリビリする音がした。足音が聞こえる。
女はどこて眠るのだろう。
足音が聞こえる。
小さな家に見えたが何部屋あるのだろうか
足音が聞こえる。足音が聞こえる。
自分のすぐ後ろの襖がスーッと開いた。後頭部に冷気を感じたのを最後に足音はしなくなった。この布団は女の布団だったのだと俺は確信した。
女が布団の中に入ってきたので俺は身を硬直させたが、何を考えているのか、女は俺のズボンの中に脚を入れ始めた。ピッタリと俺の背中にへばりつく女は服を着ていないのを理解するしかなかった。俺は熊にでも襲われたかのように死んだフリをした。
「ねぇ…」
女の左手が蛇のように背中を這って回る。徐々に蛇は俺の腹へと周りこみ下へと動き出した。
もはや眠れる状況ではない。恐らく俺が鳥肌を立てたのを女は観察して、声をかけたのだろう。一つのズボンの中に二人の人間が入っているのだから、とっさに飛び起きて逃げることは物理的に無理だった。
『ちょっと待て、最初からこうするつもりだったのか?』
内股を摩る蛇に対して、俺はコンタクトを試みた。
「何が目的ですか? お金ですか? 差し上げますから殺さないで下さい」
小声で背後の女に語りかけた。
「お金じゃないわ。愛よ…。愛…」
蛇が下腹部に纏わり付いたのを俺は両手で包んで上下させた。
「愛だなんて、さっき会ったような人間からどうして分かるんですか」
「分かるわよ…」
女の言葉がゼロ距離で俺の背中に広がった。
粘液を纏った蛇に感染したかのように、今度は俺の手が蛇のように女の身体を這った。尻から背中を伝い、肩を通って顔を。そして唇に侵入すると、女はしゃぶりついた。今度は俺の蛇が女の舌先へ伝染したのだ。
「体勢を変えていいですか?」と訊くと「ダメよ」と低い声で女は俺に耳打ちした。
逃げようとしたのがバレている。俺は何となく「殺さないで」と言ったが、確認できていない女の右手に包丁か致死量の毒が握られていても、何の違和感もなかった。それどころか夫が居たなんて話も嘘で、下心を丸出しにして彷徨っている男を見つけては遊んで殺してを繰り返していても不思議ではなかった。それ程までにこの女からは狂気性を感じるのだ。
「わかりました」
蛇は生暖かい女の口から出て鎖骨に触ると乳頭を甘く噛んだ。
「愛って何でしょうね?」
「アッ…」
蛇は先ほどまでよりも強く噛んだ。
「上部だけの感覚の事ではないでしょう?」
「アッ…アア…」
蛇はギリギリと噛みつきながら毒を回した。冷たい布団は熱気で満ち満ちていた。蛇が力を弱めると女は何か残念がっているような吐息を漏らしたが、俺にとってみれば後ろ手で満足させなければ殺されるという、まるでスフィンクスの馬鹿げた謎かけみたいな事をやっているのだから、これで終わるわけがないのだ。
蛇は数分前に通った女の背中から骨盤を這って尻を掴んだ。下になっている右半身を少し浮かせて、二匹目の蛇がそこに追いついた。
「アア…」
蛇が尻を揉みしだくたびに女の息が漏れた。
「それしか言わないんですか? 感じますか?」
俺の二度目の命乞いに女は「ええ…少し…」と嗤いながら言った。
さらに強く揉んでいくと湿り気は増していった。
それは強烈な腐臭を放つ黒いビニール袋だった。
「何ですか? これ…ひどい匂いですね」
「イノシシですよ。猟友会の人がくれたんですけど、食べきれるわけないですから」
思わず俺は「ひどい嘘ですね」と言いそうになった。
三つある袋のうちの二つを持って、俺は女の後を追った。
『仮に一袋、二十数キログラムだとしたらどうだろう? ちょうど成人男性一人分ではないだろうか』
まるで俺は自分自身を運ぶように、女の指差した穴の中へと順番に黒いビニール袋を放り投げた。その黒は地獄まで続いているように思えた。女はそれを確認すると、スコップで土をかけ始めた。
「袋に入れたままでいいんですか?」
「ええ。あの袋は特別な袋で、生ゴミなんかを醗酵させるものなんです。袋そのものが土に還るから、そこらへんの堆肥なんかよりも臭いのない土になるんです」
俺にはもう何が本当なのか分からなくなった。
「ねぇ、昨日の続きをしましょうよ!」
作業が終わると、女は汚れた手で俺の下半身を撫で始めた。土のついた汚いでやられるそれは、目の細かい紙やすりをかけられるようだった。
「やめて下さいよ」
「アハハハハ」
そんな気もないのに俺がそそり立つと女はよけいに嗤った。下卑た嗤い声が山に響く。人目を避ける必要なんてないと言っているようなものだった。つまり、イノシシはおろかこの山に俺とこの女以外の人間なんて存在しないのは明らかだった。
人を一人殺してこの山に逃げてきた俺にとっては、静寂をもたらすのは造作もないことだったーー。
#小説
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