Slur
四月のとある夜の事だった。
その晩、外は雨が降っていて、時折強い風が吹くと窓ガラスが揺れ、振幅によって生じた数ミリほどの隙間から鋭い風が部屋に侵入した。電気の消えた暗い部屋の中には一人の女がなかなか寝付けずにいた。雷は鳴ってはいないものの、雨と風の他に聞こえる音が女の神経を逆撫でた。
「トトト、トトト…」
女の見つめる先には暗闇を暗闇と認知させる為にあるように存在する変哲もない天井と壁とがあるだけだった。
風が窓を揺らす合間、雨が窓を叩く合間にその音は聞こえた。
「トトトトト、ズズッ、ズズッ…」
天井の裏に居たのは一匹のネズミだった。
お気に入りの寝床は雨で浸水し、好奇心にかられて集めた自慢のコレクションや、食べかけだった食料たちも今頃は激流の中を彷徨っているのだろう。口がむず痒くなった彼は断熱材を齧っては、適当に弄んでそこら辺に転がして遊んだ。人間の匂いがする場所は危険が多く、長居する事はほとんどないが、この場所は居心地がよかった。
「トトトトト…」
足音を追うようにして、天井を見つめる女の視点も移動した。
「トトトトト…」
足場が無くなると、彼は鼻を上げて風の流れを感じ取った。どうやら壁と板の間に隙間があり、鼻をくすぐる匂いはそこから来ているらしい。
「カサカサ、ズズッ…ズッ…」
自分から遠ざり、壁の間から下に移動するその音に女は恐怖した。
「トト、ト、ズズッ、ズッ…」
彼は頭を逆さにして、足場を確認しながらゆっくり降りた。アンテナとなっているヒゲをヒクヒクさせながら、匂いが強くなるのを感じてワクワクしていた。
「ガサッ、ガサッ、ズッ…」
女はもう、暴力的な風の音も、窓に打ち付ける雨の音も、ネズミの足音もどうでもよくなり、ぐったりと頭を抱えていた。
「タタタタタ、ピチャ、ピチャ…」
彼の足に纏わりつく感覚は今までとは違った。その異臭を放つ液体は好奇心がなければ、たちまち沼地のように引きずり込んでしまうような深い闇だった。
女は重い瞼の裏側で、少し昔の、楽しかった事を考えていた。そうやって無理矢理にでも考えなかったら、薄い板を隔てて存在する暗闇に女も引きずり込まれてしまっていたのかもしれない。
「………」
音が止んだ。忙しなく動き回っていた彼が足を止めたのだ。その尖った鼻が触れたのは人間の足の親指だった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
身体を震わせながら呟く女の呪文が暗闇の中を彷徨っていた。
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