安い珈琲とアパートへの帰還

「で? これ、ケツは?」

「はい?」

「起承転結のケツだよ、結。この話、んでオチはどう? なんもないよね? それって困るな」

編集者さんがひとごとのように言う。実際、他人事だろう。私は黙ってうつむいた。編集者さんは、デジタル原稿用紙をプリントアウトしたものが私の視界に入るように差し出して突っ返してきた。
「この漫画、児童虐待部分はリアルできもちわるいから、そこはいいと思うよ。漫画的にって意味で。生々しくてよく描けてるよ。でもさ、酷い虐待を受けて酷いことされてきました、そんで最後は大事にしてた宝物のお姉さんの絵画まで破られて大ショック! そんで、終わり? ないでしょ」
編集者さんが、最後のページをひらいて見せる。

描いたのは私だ。もちろん、知っている。ショックを受けて話はおわりだ。

「これじゃ読者は反応に困るよ? 読んでて気持ち悪くなって、最悪の場合は生理的に無理っつわれて作者名指しで炎上だよ、いまどきは。まあ、ここまで虐待描写が苛烈だとそこだけ炎上みたいに話題になる可能性はあるかもしれないけど。ファンができる、ってのはないかなー、だって問題はなんも解決してないでしょ」

「はい」

「次回、そこを直してきてくれる?」

空気が、つたわる。今回はこれで終わり。もう帰っていいよ。そう言われている。

私はなんと返事してよいものやら悩んだ。しかし、悩み事など今は不要だろう。原稿が私の目の前まで、机のはじまで押し出されてくるので、仕方なく私はそれを回収してA4サイズのビッグトートバッグにこれを収納する。
頭をさげて、できうるかぎりに丁寧に礼を告げて秀麗社のコミックかんざし編集部をあとにする。エレベーターで下におりるとき、有名作のポスターがドア以外の3面部分をアートのように埋め尽くしていた。アニメ化、実写映画化、CDドラマ化、フィギュア化、華々しい告知ばかりだ。

巨大なビルをでて、本当はまっすぐにアパートに帰宅するべきなんだろうけれど、私は金もないのにチェーンで経営しているコーヒー店に入った。

コーヒーを一杯だけ、注文する。ブラックで……。

A4サイズのトートバッグは胸に抱えてイスに座った。そのまま、しばし呆然として、しかし私はどうしていいものやら、感情をもてあまして羞恥心と消えてしまいたい気持ちと、それに、理由なき怒りで腹が掻き乱される。羞恥心、消えてしまいたい、それに憤怒。激憤。

私は、わたしのなかで心の声になどするまでもなく、怒り狂っている原因は知っていた。私の全身が知っていた。
ひとりきりのアパートに帰ったら首でも吊ってしまいそうな種別の怒りで、それは絶望にも近い。でも絶望のように薄暗くなく、私のこれは、ごうごうして盛んに燃え盛っている。絶望に非常に似ているとしても。

「どうぞ」

かろやかな声がコーヒーを提供する。

ぐっ、と一杯を喉に押し込んだ。にがい。にがい味。苦味ばかり。

「はい」
パーティションで区切っただけの簡易会議室で、「次回、そこを直してきてくれる?」に返せなかった返事を、今更にくちのなかに貯め込んだ。やはり恥ずかしくて顔から火が噴くし、怒り狂っているし、体温がどんどん上昇して下着の下が汗ばんだ。あせぐるしく全身がカッカとする。

『――――――できません』

くちの、なかでだけ、唇でだけで私のくちがぱくぱくする。知らず、涙があふれてしまいそうで、やっぱりアパートに帰らなくてよかった、痛感する。帰ったら泣いてしまって、泣いたら、再起不能になりかねない。

唇でだけ、私は遅まきながら、虚空に向かって呪怨を吐いた。


『これ、わたしの私小説なんです。オチなんてありません。救いなんてありません。だから、わたし、漫画を描くしかなくて、表現するしかなくて、こらえきれずに何かを作るしかないからこれ描いたんです。オチなんてありません。だって、私はまだ、生きようとしてるんだから……』


きれいで、美しくて、誰かが救われるような起承転結のケツなんてものがあれば、私はそもそも何かを描くような人間にならなかっただろう。救われないから今の私になっているんだから。

思えば思うほど、悔しいし悲しいし、そして怒りが噴火した。どうして? どうしてこうなってしまうんだろう。人生ってなに。

「――――――――」

コーヒーを、飲む。おかわりして、もういっぱい。さらにもういっぱい。お金がないのでサイドメニューは我慢した。

5度目のコーヒーで、ふっと頭に閃光がはじけた。ああ、コーヒーを飲んでおわり……に、変えられるかもしれない。人生の汚濁を注入されて育った子どもが、絶望して育ち、そして、コーヒーを飲んでおわり。コーヒーは大人の象徴とかなんとか読めるように仕上げちゃえばいいんでは?

実際、私は今、コーヒーを飲んでいる。コーヒーを飲み、この絶息するほどの怒気をこらえて呑み込んで人生に耐えて生きている。ああ、リテイクが描けそう。やっとそう思えばレシートをもって会計に向かうことができた。

無事に、どうにか、アパートに帰還できそうだ。今日は。



END.

読んでいただきありがとうございます。練習の励みにしてます。