人魚姫になんてなれない

余命いくばか、医師からの宣告を受けながら、あたしは頭のなかを海辺の一軒家にとばしていた。小学4年生のころ両親に連れて行ってもらった別荘。所有者は父の友人で、なんでも夏のあいだだけ、管理人を勤める代わりに別荘住まいをさせてもらえることになったとか。

思い出してみる。最高の夏休みだった。海にすぐ行けて、朝ごはんの前に日の出を見たり、波とたわむれたり、時間の流れが急速にたわんで1日が36時間になったかのようだった。夏休みの間は窓を開けて潮風を何度も浴びた。近くの海の家でおやつに焼きトウモロコシとアクエリアスを買った。今まででいちばん美味しいご飯だった。海辺の別荘に住んでるあたしは、無敵だった。

「ご家族の方を呼んでこなかったんですね」

お医者さんが、眉を8の字にしながら変なふうに笑った。あたしも変に笑った。確かに、今日は家族を呼ぶように言われた。

「ええ、まぁ。呼ぶというか。たぶん、呼ばれているんです。あとは、残るのはあたしだけですから」

「ご両親は、事故で……?」

「そんなところです」

曖昧に笑って、励ましと同情の感情をとりちがえたようにして、お医者さんがひとまず口角をあげている。あたしもそんなものだ。

海辺の家。別荘。父さんの書斎を漁って、あの別荘にまた泊まることを考えていた。最期が見えているなら、もう一度、あの思い出に浸りたい。やさしくてやわらか、絹糸でできたブランケットでくるまれたような記憶と一緒に。

病院の会計を終えて、冬の終わりの空を見上げた。雲が近くてコートは少し暑苦しい。もうすぐ春がきて、じきに夏だ。あたしは別荘にたどり着けているだろうか。

薬局に向かう坂道を歩きながら囁いた。

「人魚姫みたいに楽に死ねたらいいのねぇ」

言ってみてから、少し驚く。そんなふうに思ってるんだ、あたし。

でも人魚姫の死に方は楽だろう。好きな人を思いながらただただ泡になる。人魚姫は家族や友人には一切の未練がなかったのだろうか? あたしは人魚姫にはなれそうもない。海辺の別荘に行きたがる。楽園の思い出に慰められたい。

薬局に処方箋を提出して、待合所のイスにかけた。10分もせずまた立ち上がる。今すぐ帰宅したくてたまらない気持ちになる。久しぶりに、本当に久しぶりになるけれど、父さんの書斎を漁ってあの別荘の持ち主を突き止めなければ。

あたしは人魚姫にはなれない。家族の暖かな思い出があたしを引き留める。ただ、人魚姫よりもっと悪いところはあって、あたしが死ねば御堂家の血が途絶えるって悲しい事実がある。でもどうしようもない。死ぬときが事前にわかっても、どうしようもない。死ぬってそういうことだった。人魚姫もそんな気分で開き直って恋にだけ生きたんだろうか。

それでも、あたしは別荘に行きたい。思い出のなかに浸りたい。処方箋を受け取って外に出ると、雲が先程よりもさらに下がっていて、地表に近づいていた。春が近い。

あの海辺の別荘から、桜も見えたら嬉しいのだけど。



END.

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