人知らず≒不老不死
誰にも知られず生きる私は、人魚の肉を食って不老不死を得たとされる八尾比丘尼とさして変わらないのでは?
認識されないのならば、生きてようが死んでいようが第三者には同じでは?
私は児童保護施設から逃げ出した。単に気に食わなかった。以来、日本ではめずらしい子どもの、それも女のホームレスだ。誰も私の本名を知らないし、私が何歳なのかも知らない。
炊き出しや貧困児童用の食堂でまともなご飯をたまに食べている。それがなければ、コンビニやレストランの廃棄物を狙う。私はいうなればドブネズミだ。別にいい。寝る場所は、ちょっとした家出なんですぅ……、なんて可愛らしい子どもを演じていると向こうからやってくる。下心のある男。親切な老人。あるいは警察官。私は、彼らの世話になって、数日してふらりとまた消える。
消えて、消えて、気がつけば少女の年齢ではなくなった。さすがに家出少女を名乗るのは無理がでてきた。ただの、女のホームレスになっていく。それでも世間は私を知らないし、本名も年齢も突き止めることはなかった。
八尾比丘尼ならおばさん、おばあさんでもおかしくない。でも人魚姫ならよかったな、と年老いていく我が身を痛感すると妄想のほうが活発になっていった。人魚姫なら。泡になって消えられて、ラクそうだ。
八尾比丘尼は、肉体が残るから面倒だ。不老不死になったとして肉体は残り続けるわけできっととても面倒な毎日に違いない。
八尾比丘尼は面倒くさいだろうから、やっぱり私は八尾比丘尼にシンクロするほうがしっくりした。
私は、不老不死の八尾比丘尼。老いていくけれど誰にも知られてないから出会う人にとってはその時の私が常に最新の私だった。
私は、八尾比丘尼。不老不死だからなにも怖くない。
「おばあちゃん、泣いてるの? どうしたどうした。あのね、わたしはNPOの加藤という者でね、」
やめろ。やめろ。私を知ろうとするな。八尾比丘尼でなくなってしまうから。
でも、年老いた私に、かつてのようなバイタリティーはなかった。私は結局、ボロボロのアパートに入所して生活保護などの手続きをどんどんと進められた。記入欄があった。必ず、書かなければ、ならない、と、言う。
私は泣きながら八尾比丘尼を辞めた。
本名と年齢に久しぶりに再会した。まるで夢から覚めるようだった。
もう、ただの人間の緑上春佳(52歳)に戻ってしまったけど、やっぱり八尾比丘尼よりも人魚姫がよかったな、などと思った。アッチを妄想していればよかった。死ぬ気を起こしてたかも知れないから。
ガタがきてあちこち痛む四肢を引きずり、私は施設に戻る。これまた、久々の出戻りだ。私が逃げたあの頃と変わらず、寒々として白々しい空気が、廊下や各部屋や全体によどみのよう漂っていた。
嫌な空気だ。あいかわらず。気が合わない。
END.
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