教授の免許返上(たんぺん怪談)
蛙洞立芳教授は、今年六七にもなるが、海辺の自宅から数キロ先までの勤務地である私立大学まで車を運転させるのを日課にしている。市バスもあるにはあるが、運転が好きだったので、この習慣は実に三十年も継続していた。
どんッ!
ある夜更け。帰宅途中に、ミニバンに衝撃が走った。なにかしらが衝突したとすぐに悟る。事故だ。教授は慌てて車を降り、ぶつけたか轢いたかしたものを捜した。スマホを片手に救急車の準備をしながらだ。
だが、救急センターにコールはしたが、教授は、電話の向こう側になにも答えられずに沈黙することとなった。
ずる、ずるずるる、ずるる……
新月の真っ暗な闇の内側に向かってなにかが這っていく。海へと。はじめ、教授は人間を轢いたと早合点した。たしかに、頭があって胴体があり、両手があった。しかし、頭か胴体か両手か、奇妙な方角にゆがんで曲がっていると見受けられたし、今、ずるずると引きずられているのは、巨大な尾だ。生臭さが臭ってきて、うろこのようなものが散乱しているのが、車のライトに照らされた範囲でだけ確認ができる。
『住所はどちらですか? 所在地はどちらですか?』
「――――」
ライトの範囲内に、うろこと、巨大な濡れたなにかが引きずった痕跡が残される。教授は無言で通話をオフにする。
車を確認した。助手席のドアにあたる部分にへこみがあった。こすれた傷もあるが、ささくれた何かと擦ったあとだ。臭いだけで嫌な予感がするのでおそるおそる触ればヌチャリとした粘膜がこびりついていた。肝が凍り付き、教授は立ち尽くすが、夜の車道にほかに車はなく、先程までの奇怪なズルズルした引きずる音も消え去って、夜のとばりが静かに落ちるのみ。
運転席に戻ると、教授はアクセルを踏み込み、こちらも一目散に現場を逃げ出した。
教授が運転免許証を返納したのは、それから数日後のことである。
END.
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