来年から道徳の授業にfrom YS- the middle of june -が採用されるらしい
嘘です。
開幕嘘ついてすみません。
ただ、ATEEZヨサンさんの2024センイルMD、from YS- the middle of june -が実質道徳の教科書であるというのは本当です。
小学生の時とかに出会ってたら多分もっと素敵な大人になれた気がする。
まあでも、from YS- the middle of june -は全ての人の、
というか全ての「自分は愛されているのだと感じたい人」の為の一冊なので、
全然大人になってからも情操的にはかなり健やかになれます。
なんか最近、結構精神的にヤバくて、まあヤバくない時なんてあるんですか?と言われたら、
ウヨニャンの一文字の口元くらい真っ直ぐな瞳で「ありません」と答えるけど、
それを差し引いてもまあまあヤバい感じになってて。
希死念慮くんとはもう長年の付き合いなので普段は希死念慮くんが「おっす(笑)」ってやってきても、
ま、推しでも見ながら飲みましょうや(笑)って肩組んでなあなあに朝を迎えられるんだけど、
最近はもうずっと肩に手を乗せてきてて、希死念慮くんが。
もう終電間際に隣に座ってる酔っ払いジジイがもたれかかって寝始めた時くらいずっと肩にいて、
このまま人生の終着駅に行ってしまうんですか?というテンション。
こんなことになるなら7月上旬にはとっくに届いてたfrom YS- the middle of june -にさっさと手を伸ばせばよかったんですけど、
これがまあ私の気持ち悪いところというか、本当に大事なものだと迂闊に触れなくて遠ざけてしまうところがあり、
いまだにCoachellaのビハインドとかも見れてないのもそうだし、
TikTokを3時間見る時間はあるのに、その映像に詰まっているであろう「感情」を受け取る自信と器がなくて、
すみません自分ちょっと今日は…を何日も続けずるずる今日まで来てしまっている。
別に供給をすぐ受け取れる人が大切に思ってないとか重く受け止めてないとかそういうことではなく、
ただ私は"そう"で、触れないまま来てしまった。
かくして自分が死んだ時に棺桶に入れてもらうことだけは決めたまま、
from YS- the middle of june -は自宅にある神棚的なところにずっと飾られていたのだけど、
もう本当にいよいよ精神がおしまいで希死念慮くんも最寄りからずっと家に着いてきてるし、
どうするどうするってなった時に手を伸ばせる救い(from YS- the middle of june -)はすぐそこにあったのだった。
from YS- the middle of june -、一言で言えば1頁ずつめくることができるタイプの「愛」でした。
内容についてはまだ見てない人の為にも詳しく触れることはできないのだけど、
アイドルとしてだけではなく人間としてのカンヨサンを見せたいみたいなことを言ってたのが、
ああ本当にそうなんだろうなと思える写真のチョイスで。
ありのまますぎて俺の中のエルサが雪山登って城建てて歌い出すレベル。
で、確実に言えるのはこれを作って送り届けようと思った人(ヨサンさん)はこれを受け取って手に取る人のことを愛してるんだなということで。
すみません。キモいこと言ってる自覚はあるんですけど、
これは本当に"そう"なので、はい。すみません。
道に咲く花を見て誰かを思い出したなら、
それは相手を愛しているということじゃないですか。
自分が見た良いもの、かわいいもの、素敵なものを共有して、
相手にも良い気分になってほしいという気持ちが、
洗い立ての白いシーツみたいな、川底にあったぴかぴかの石みたいな、カメラに写らない距離で輝く星みたいな、陽の光を受けてきらめく朝露みたいな純粋さで、そこにある。
あなたのいる場所の空はいつも晴れていてほしいし、
あなたに吹く風はいつも穏やかであってほしいし、
あなたに降る雨はいつも優しいものであってほしいし、
あなたがすれ違う犬はいつもご機嫌であってほしいし、
あなたに届く言葉はいつも綺麗なものであってほしいし、
あなたの今日に一つでもお気に入りが増えてほしいし、
世界がいつもあなたに温かく微笑んでほしい。
突き詰めれば、あなたに幸せでいてほしいという祈り。
こういう勝手な祈りを、どうしてもアイドルに対しては抱いてしまうんだけど、
そういう祈りの対象である相手から、こんな風に
「笑っててほしい、健やかでいてほしい、幸せでいてほしい」という願いを向けられると、
本当に、いいんですか、いいんですか、という気持ちになる。俺の中の野田洋次郎が黙っちゃいない。
なんか生きてるだけで偉い、みたいなのあるけどあんなの普通に嘘で、というか普通にそんな風には思えなくて、
自分の呼吸含めた一挙一動に何かしら意味づけをして
そこにいることを許されるだけの貢献や必要性がないと存在してはいけないだろう、
みたいな見えない戦闘服をずっと着ている人生なので、
こんな風にただたまたまヨサンさんのことを好きになって、ヨドゥンイと名乗ることを決めただけなのに、
それだけでこんなに愛されているというのが、
本当に、なんですか、生きてて良いのかもしれないと思えてしまった。
一時期心を病んでしまった人に対して、花の写真を送る仕事をしていたことがあり(正確には花だけではないが結局花が一番喜んでもらえるのでそればかり送っていた)
その仕事を辞めた後も道に咲いてる花を見れば相手のことを考えたし、
時が流れても「あの夏はこの花の写真を撮ったな」と思い出すことがある。
そんなふうに、例え仕事であったとしても花の写真を撮って送る相手がいるということ、
何でもなく咲く花を見て思い出す相手がいるというのは幸せなことなのだと思う。
だから、この一冊を作る時のヨサンさんが幸せだったらいいなと思った。
きっと幸せだったと思うし、幸せだと思ってくれるだろうと信じられるヨサンさんが好きだから。
希死念慮くんはまだ隣にすわっているけれど、
オタク界の大谷翔平になって全国の小学校にfrom YS- the middle of june -を寄付するまでは死ねないので、
もう少しだけ生きようと思う、花の中にあなたを見つける日々を。
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