神椿同人小説集『黒体放射』について


はじめに


サークル『蓮根の回転について』様発行の神椿同人小説集『黒体放射』についての感想です。

実は以前、同サークル様の前作『新しい神椿を生きるための12の小説』についても感想を書いたことがありまして、今思えば的外れなことも多々書いてしまい、また作品への感想に比してそれ以外の文章が多くなってしまったきらいもあって反省しきりなのですが、懲りずにまた書いてみたいと思います。

感想ひとつひとつはささやかなのですが、十三篇あつまるとどうしてもそれなりの量になってしまい、「あれ、オレ重くね?」と我に返ることもありましたが構わず突き進むことにしました。

私は観測者の端くれではありますが、アーティストやコンテンツへの造詣はさして深いわけではありません。特にVALISやAlbemuthについては、ちゃんと追われている方々に比べれば無知に等しいです。作中に織り込まれた意味合いなどに気づかないこともあるかと思いますがご容赦ください。
なお、あくまでこの感想文は、読まれる方が内容を知っている前提の文章であり、あらすじの解説等はありません。未読の方はぜひ先に本書をご購読ください。

あと、ですます調は疲れるので、感想文はだ・である調にします。びっくりしないでね。

それでは。


『Re: quiz』(楽曲:『quiz』)


『あとがき』で作者様が仰っているようにMVに強く紐づけられた作品であり、MVの景色を見ながら読むとより実感が湧く。

私はいわゆる聖地に疎くて、ちょっと前まで渋谷のあのトンネルでさえ具体的な場所を知らなかったほどだ。
いまままではMVを、なんとなく東京だな、とか郊外だな、とか思いながら流し見ていただけだったけど、具体的な地名を聞くと途端に愛着が強くなる。
ちゃんと目を向ければ感じられたはずのこんなにもたくさんの情感を、無意識に取りこぼしていたんだな。

題材となったMVを見ればそこで歌っているのは昔の花譜だ。現在の花譜ももちろん好きだけれど、それでもMVの中の彼女の声を聴くと、懐かしいような寂しいような不思議な感慨が胸を満たす。
題材の曲が持つ痛みや切なさが、小説の語り手のもう手の届かない過去に対する想い、さらには昔を偲ぶ読み手自身の感傷とも重なるのだ。

私は花譜のこれまでのメッセージ動画をたまに聴き返すことがあって、いまでこそ涙が出るほど懐かしい気持ちになるんだけど、当時はたぶん一回か二回聴いたきりで仕舞い込んでいた。
また、応援の言葉を送ったり、曲の感想を伝えたり、そういう、花譜がくれるものに対する返事みたいなことをほとんどしてこなかった。
だからいま、昔の花譜の声を聴くたびに、私はちゃんと向き合っていなかったかもしれないとか、なんの支えにもなれていなかったんだろうなという後悔がついてまわるのだ。
そんなだから、小説の語り手に勝手に親近感を覚えている。
『quiz』が現実の時間で「5年前の曲」になった今だからこそ、読み手と語り手の心情がこんなにもリンクするのだろう。

小説としては短くてシンプルだけど、そのぶん読み手の心の奥から湧いてくるささやかな声が、響くだけの余白がある。高級な料亭の薄い味付けの一品みたいな感じ(喩えで台無しにしたかもしれない……)。

タイトルも、PCの中で眠っていたビデオレターに対する、数年越しの返答になっている。
この「Re:」は、はたして心の中だけで呟いたものなのか、もしくは本当に返信したものなのか。それもまた、余韻の先に想像を広げるのが良いのだろう。
個人的には、すれちがいをしてた僕らが歩み寄れる、そんな答えがいい。


『夜で待ってる』(楽曲:『ルフラン』)


題材の曲をちゃんと知らなかったので、これを機に歌詞をしっかり読んでみた。
私はヨルシカの『言って。』が好きなんだけど、それと線対称のような曲に思えた。
『言って。』は心が麻痺したような逃避の状態から、やがて現実を直視し、未来に向けて踏み出そうとする歌だと思う。
一方『ルフラン』は、どうしようもない現実が、起きている間じゅう頭の中でリフレインしている。
生きることを放棄して、これ以上喪うことのない無敵の抜け殻のまま、人生が過ぎるのを待つ気でいる。

喪い切って、有意義と無意味の境目すらなくなって、埋まらないものを埋めるための選択肢がもはや実世界には存在しない。あくまで自分と、もういない相手とのやり取りに終始している。
そんな楽曲のイメージに、具体的な背景を与えて書き起こしたのがこの小説という印象だ。

命をつなぐだけの食事はして、友人への対応もして、境界線上でギリギリ生の側に立ってはいるけど、遺された歯ブラシを掃除用にしようかとか、生存本能に訴えかける料理の匂いとか、友人の優しさとか、そういった分岐点を一つ一つ閉ざしていく姿が痛々しい。
それは胸の内に芽生えてくる希望や活力みたいなものを生まれるそばから刃で叩き潰して、暗い平静を保つ作業だ。
他人の力に救われることすら億劫で、痛みに泥んでいたくなるときがあるけど、この語り手はあらゆる選択の原理が喪った相手(が帰ってきたとき)のためなのだ。

私は幸いにもそこまで大きな喪失は経験したことはない。
ただ昔、目の前で車に轢かれてもがいてる猫を病院に連れて行って、結局死なれてしまったことがある。
遺体を引き取るとき病院の待合室で他のわんにゃんを見ながら「生きてて、いいなあ」とぼんやり考えたり、「嘘だったりしないかな」「もし助かってたらこうしたかったな」と益体もないことを考えるぐらいしか頭が働かなかったことを覚えている。
人は喪失に対して、しばらくのあいだ無力だ。

『あとがき』で書かれている「頭を撫でてくれた(略)手の温もり」は正直覚えていないが、撫でたときの温もりは忘れていない。
そんなことを思い出した。


『知れない君と未来』(楽曲:『百年』)


この楽曲は捉えどころがない。理芽の曲はたいがい解釈が難しいのだけど、この曲もそんな一つだ。

そして小説も同じくらい抽象的な一篇だった。
登場人物の名前や属性、関係性は明示されず、物語はそのほとんどが語り手のベッドの上での思索である。

一応語り手は「陽気」「明るい」という記述があり、理芽をイメージした人物だと思われる。
そしてそれら陽の人物像は常に「偽物」や「装い」という語り手の自己認識を伴っている。
そんな語り手の内面に差す影をさらに濃くしているのが、「彼」が持つ裏表のない強い光だ。
理芽というアーティストの元々のコンセプトが持つ仄暗さだったり、『食虫植物』のような衝動、もしくは本当に彼女が持っているかもしれない多層性を描いているようで面白い。

物語の骨格としては、元の歌詞をなぞる形で進行する。
朝の眩しさを感じるところから始まり、カーテンが揺らいで終わる。その過程で、歌詞に展開される哲学を、語り手の思索の流れに当てはめて独白していく。
題材とする曲の扱い方としては、一つ前の作品『夜で待ってる』とも近いかもしれない。が、流れは対照的だ。
前の作品が夜明けを拒絶し、絶えず突き付けられる現実を否定して眠りの中に願いを託すのに対し、
こちらの作品は陽光に包まれた部屋でまどろみながら悪夢の残滓を払いのけて外に踏み出す。
もちろん、相手となる人物が死んでいるか生きているかの違いは大きい。先を悩めることは生きている者の特権だ。

個人的に、『百年』はニューロマンスⅡで歌われた際の情景が強く心に残っている。そのせいで、歌詞自体は迷いのただなかで何とか歩もうとする人間の視点なのに、曲全体としては澄みわたった境地で芽神様が、迷える生を言祝いでくれているような印象が根付いているのだ。
私の好きな曲にザ・フォーク・クルセダーズの『百まで生きよう』というのがある。とてもシンプルで平易な表現のフォークソングなんだけど、その中に悟りを感じる。
『百年』も私にとってそんな曲だ。

「百年後のイヤホン」は「もう少し静かに鳴る」けれど、いま語り手が着けているヘッドホンは「うるさくてたまらない」。
しかしそのうるささが心を鼓舞し、笑顔をもたらす。
百年後の安らかに凪いだ境地とは程遠い、迷い、ざわめき、音楽ひとつでころころと移ろう今現在の心境にこそ、生の実存があるのだろう。


『理芽の赤は街中華の赤』(楽曲:『狂えない』)


こういうジャンル大好き。
飄々とした変な人が実は異変に対処するスペシャリスト、というストーリー。
龍脈/龍穴をはじめとした呪術的なシンボルの数々と、それに絡めた謎解き要素。
そして、心の傷によって観念の世界に囚われていたり、異変の原因が語り手自身であることが終盤で発覚したりと熱い展開を押さえている。
歌詞の「借り物で出来た太陽がまた落ちていく」のあたりからこの舞台を設定して、「明日がないよりはまだずっといい」あたりから結末を導いたのかな。
なにより理芽のキャラクターが魅力的に描かれていて、キーパーソンとしてしっかり物語を回している。

基本的なところを読めてなくて申し訳ないが、きっかけになった「事故」に遭ったのは「彼女」?
語り手が伝龍にいるときに「彼女」の事故の報せを受けて、そのまま伝龍ごと異界に入って、理芽から渡された手紙で「彼女」が入院中だと知った、という流れでいいのかな。
(伝龍も伝龍で無くなりそうだから、そちらに絡む事故? でもそれはちょっとロマンスが薄いか……?)

独自の世界観に、描写されてない部分への想像を誘われる。

理芽のにとってこの事件解決は「仕事」だけど、他の魔女たちも同じようなことをしているんだろうか。というかそもそも居るのだろうか。

また、この町が囚われてから、ループしながらではあるが三か月経った。そして道路工事は三か月前から今日までの間に変化した箇所だ。つまり囚われた世界を支えている「めでたい印、契約」のうちの一つ、雷文は、この世界が囚われた後に結ばれたということになる。誰によって?

電話が鳴ったのは単に話題を「間違い」に切り替えるためのメタ的なギミックなのだろうか。それとも鳴るべくして鳴ったのだろうか。電話が異界に繋がるというイメージもまた、怪異を扱うジャンルでは定番だろう。
(関係ないけど少女革命計画の『弔花』のMV冒頭のスマホが繋がるシーン、しびれますよね)

「正解がほしいよ 不正解もほしいよ」という歌詞が、語り手の、生きたい、でも同時にこの世界に囚われていたいという葛藤のように聞こえる。
楽曲では最後、やりきれない思いを抱えたまま「なんにもないよりはまだずっといいか」と思い直して、「これもいいよ」と受け入れて言って終わる。
語り手は最終的に、「いつまでもここに居たいと望んだ」はずの町を後にして、現実の「彼女」の元へ向かった。

現実を受け入れることは一見、諦めることに似て、しかし非なるものである。
現状を呑み込み、それを踏まえたうえで次の一歩を選ぶこと。歩き続けること。それは諦めることの対極にある。

作中の理芽は「何事も無駄なんかじゃない」と言った。
町はやがて消えるとしても、確かにそこにあって、語り手の中に息づいているのだろう。

理芽曲の歌詞が難しいという話は一つ前の作品のところでもしたのだけど、この曲もよく分からない。内面的な煩悶の歌かと思ったら一瞬だけコズミックホラーみたいにならない? 狂えないってそっちの狂気?
これがテーマソングになっている『サブスクの子と呼ばれて』は未読なんだけど、関連しているんだろうか?
正解がほしいよ……。


『次へ……』(楽曲:『舟』)


私はAlbemuthについて、外から経緯を見てはいたが実際のパフォーマンスはほぼ知らない。
この作品を読むにあたって、『舟』をおそらく初めてちゃんと聴いた。
詞の力がすごい。
情景の美しさはもちろん、窓辺の一葉という目の前の光景にオーバーラップさせて過去の出来事に移り変わり、清冽な心象風景を経てふと我に返るように元の窓辺に戻ってくるまでのカメラワークが秀逸。一言一言に寂寥と慈愛が満ちていて、大切な人との別れの実感をありありと想起させる。

『舟』を題材にした作品は本書の中に二篇収録されており、Albemuthのリスナーにとってそれだけ重要な曲なのだろうと思う。

この小説は、存流が卒業した夜、非現実の世界での穏やかな時間を描いている。
本書の中では唯一、現実世界のアーティスト本人を描いた作品だ。
出来事としては、いつの間にか夢ともつかない知らない世界で海辺に佇んでいた明透が、存流と出会って話し、やがて存流は立ち去る。
眠りから覚めた明透は、気持ちの整理をつけ、二人の分かたれた旅路を祝福して物語は終わる。
切なくもひと時の救いと、未来への希望のある、優しい物語だ。

そこに書かれているのは、現実の明透と存流が眺めたかもしれない景色であり、交わしたかもしれない睦言であり、別れの中に見出したかもしれない光明である。
それはもしかしたら卒業の夜に本当にあったかもしれないし、しかし全くの空想でも構わないのだ。
こうあってほしい、という彼女たちの幸せな姿を、言葉で形にすること自体が祈りとなる、そんな作品だと感じた。

別れとは互いに互いの形の欠損を与えることである。自分の中の相手が占めていた場所にぽっかりと穴が空き、また相手にも自分の形の欠損を与えることになる。
相手の存在が大きいほど痛みも大きくなるし、同時に相手の幸せを願う気持ちも大きくなる。
歌詞に「眩しく祝った 寂しく呪った」とある通りだ。
そんな美しい不条理を「さよなら」の一言では到底片づけられない。
それは明透と存流の間でもそうだろうし、リスナーと存流の間でも同様だろう。
残された側は、痛みを抱えながら、祈りを続けるしかない。
その形態の一つが、この小説なのだ。たぶん。

一葉とは文字通り木の葉のことも指せば、小舟であったり、または言葉をつづった一枚の手紙を指す場合もある。
窓辺にしがみついて、いつしか発った「一葉」は、あるいは彼女が口ずさんだ祈りの言葉だったのかもしれない。


『孤島の日』(楽曲:『舟』)


一つ前の作品と同じ『舟』を元にしているが、一転、『あとがき』で書かれているように抽象化された作品になっている。

グランドピアノや島、チューリップとシオンなんかが暗喩だったり、「誕生日が二ヶ月前」とか「観光客船が年に数回来る」というのがヒントになっているんだろなー……とは思いつつも、私はAlbemuthの前提知識がないからお手上げだ。
「彼女」と過ごした記憶はまどろんだ夢の中で描写される。『舟』題材のもう一方の作品も夢の話だったけど、夢は重要な要素なのかな。
「孤島」は歌詞にも出てくるがそれは穏やかな美しい場所で、語り手が住む「島」にはそんな美しさは見られない。
『あとがき』で挙げてらっしゃる『しれね』を思わせる文章が入ってる箇所もあったり。
語り手にリスナーを仮託してるとかかな。

生身のタレントの引退と違って、Vの引退はそのVの死にも等しいかもしれない。
「彼女」は船に乗って島を出ていった。
古来、海の彼方には他界がある。
常世の国と呼ばれたり、竜宮、ニライカナイや補陀落ふだらくであったりするそれらは海を渡った先にある。
舟とは此岸と彼岸を繋ぐ乗り物なのだ。
語り手が住まわされている「島」は、なんとなく味気ない現世を思わせる。それとも本土のほうが現実で、それと分かたれた「島」のほうが異界だろうか。
彼岸と此岸、神椿が謳うバーチャルとリアル、夢とうつしよ、『しれね』の嘘と本当……。そうした対比の構図が層を成していて、どのようにも読み取れるようになっている。

「彼女」は「またね」と言ったにもかかわらずこの家には帰ってこない。つまりは再会が叶うのは、ここではないどこかである。
「彼女」は海の向こうでまた生まれるのだろうか。それともただ旅立ったのだろうか。
ひとつ言えるのは、ケーキは祝い事の象徴である。
そして語り手が島を離れるとき、「彼女」が選ばなかった「さよなら」を口にした。
船に乗り込んだ語り手は、「彼女」に会いに行くのだろうか。

……あてどもなく想像を巡らせてみたが、一般的な範囲で語義を解釈するに留まらざるを得ない。Albemuthを知る方から見れば支離滅裂なものになっているだろうな。

物語としては沈鬱な世界観の中で、喪った何かへの愛と覚悟が底流する、切ないながらも強かな読み味があった。


『daydreams』(楽曲:『daydream』)


次々と切り替わる世界の中で何度もうたた寝から目覚めるMVの状況を、そのまま作品内で起こる現象として取り込んでいて面白い。
なおかつSF的な解釈を用いて世界観とストーリーを構築しているのが見事。
ついでに言うと、MVで着ている服の柄が「BRAND NEW」なのも、この作品を読んで初めて気づいた。

MVでは一番最初に映る世界が、物語の中では最後に訪れる世界である。老人の顔は恋人に似ていないが、屋敷には見覚えがある様子だ。語り手の最初にいた宇宙の近似ということだろうか。

元の曲の穏やかで優しい歌声が、この物語を背景に置くと途端に切なく聴こえるから不思議だ。
語り手の腕の中で息絶えた老人にかける静かな言葉のようにも、
数多の宇宙の屍とそこに生きる人々への手向けのようにも、
もはや忘却の彼方に消えた自身と恋人の未来に対する哀悼のようにも聴こえてくる。

一方で小説を読み終えた心情はとてもすっきりとしたものである。
悲しい、とても大切な夢を見ていたはずなのに、目が覚めると同時に忘れてしまうような……、あるいは夢の中で泣きはらしたからこそ、目が覚めたときになぜかすっきりとしているような経験は誰しもあると思う。
そんな、晴れやかさの中に不思議な引っ掛かりがある読後感だった。

物語の最後は、いままでのことが全部夢だったかのような語りをもって終わる。
あれらを夢と断じることは、ある意味で正しい。
触れることも思い出すこともできない、もう存在しない世界など、ただの夢でしかないのだ。
長い夢から醒めた語り手は、数多の哀しい幻をまどろみの奥に流し去って、歩き始める。
ようやく彼女自身の生が始まる。

それはもしかしたら、いつかどこかで、名前も思い出せない誰かが、願ったことだったかもしれない。


『少年漫画』(楽曲:『少年漫画』)


こういう、ビジュアルに振ってるおしゃれな人が、実はその昔ガチ勢で今もめちゃくちゃ強いみたいな展開良いよね。

思春期の性差という普遍的なテーマを扱っており、神椿楽曲の二次創作であることを抜きにしても一篇の独立した青春小説たりえる完成度。
もちろん題材の楽曲とも噛み合っている。
楽曲やアーティストが語り手の推しとして作中に登場することで、その世界が我々と同じレイヤーの現実であるような実在感を増すのに一役買っているが、それが成立するのも大元の人物描写に説得力があるためだと思う。
(中学生でブルーに染めるのは結構すごいけど今時そんなもんかもしれない。)

あきらと少年漫画の関係は多層的で、
少年漫画を嫌いになったきっかけは、ある漫画のヒロインがあきら自身と同じ現実に屈したからだが、
少年漫画のデザインが入ったクラスTシャツを拒んだのは同調圧力に嫌気がさしたからだ。
一方で少年漫画に登場する理想のキャラクターを羨んでもいる。
そして「少年漫画の様になりたかったと歌う曲」が推しのアーティストの曲のひとつとしてマイリストに入っているし、
その曲がラストシーンでは、語り手の心持ち次第で軽快に「からかうように鳴り響」く。
そんな複雑さが、あきらのキャラクターを立体的なものにしている。

一度嫌いになったものを再び許容できるようになるのは困難で、かと思えば時間が経つとなんであんなに嫌いだったのかすら思い出せなくなっていたりするものだ。
どうにもならない感情の渦中にいて、ベタな言い方だけどいつか笑って思い出せるようになる。
歌詞に「愛とか恋じゃない泥だらけのボクに」とあるけど、あきらは愛とか恋とかも含めて泥だらけにあがいている。
少年漫画の様になりたくてなれなかった彼女が青春小説の主人公になっているという構図がおもしろい。

題材となった曲は、テーマや内容の割にドライでアップテンポな曲調だ。それはどこか虚勢のようで、なりたかった姿のように振舞って肩で風を切って歩きながらも、サビに入って切なげにちょっと空を見上げるようなイメージが浮かぶ。そして最後は、しんみりとした未練のようなものが残る。
一方、小説のほうは気持ちの整理がつく兆しが見え始める。
雲間から光が差すような、CIELの空色に遜色ない爽やかさだった。


休憩『神椿おなか合同誌 ONAKA』について


『黒体放射』と同イベントで頒布された『神椿おなか合同誌 ONAKA』について、別サークル発行ですので、本来はついでのように書くべきではないとは存じますが、『黒体放射』の作者様方もいくらか名を連ねていることもあり、当記事にて少しだけ感想を述べたいと思います。

おなか合同誌を拝読して感じたのは、おなかというモチーフの懐の深さです。
おなかイラストや3Dモデルにおいては、皆様の描きたいおなかや、おなかによって表現したいことがありありと伝わってきました。
もちろんおなか以外の作画も魅力的なのですが、テーマを定めたことにより、新たな切り口で感じ取ることができました。

おなか文学をはじめとする文章コンテンツは、おなかという共通の起点からスタートしつつもジャンルや作者様方の作風が多様で、いずれも読みごたえがありました。(『たとえば正解があるとして』は『玩具修理者』が元ネタとは思いつつも、私の知識ではそれ以上の考察ができず悔しかったです。)

付録のおなか楽曲も楽しく鑑賞しました。わがままを言えば歌詞や解説にもページを割いていただけるとありがたかったです。
また『京都神椿おなか巡り』の調査力や実際のフィールドワークによるレポート、そしてそれを元に提唱される仮説を興味深く拝見しました。ちなみに記事を読む前に裏表紙を見て「烏写ってる! タイミングすげー!」と感心してました。

『編集後記』では、「harapan(インドネシア語で"希望")」の事実に遠く異なる言語間の不思議な繋がりを感じ、「えっちは求めてるけどエロは求めてない」という言葉で世界の解像度が増した気がします。

私自身はこれまで、特別おなか好きというわけではなかったのですが、本誌を読んで皆様のおなかへの思い入れを感じ取り、まさに胸とおなかを打たれる思いでした。
おなかを打つといえば、人体急所は正中線(人体を正面から見たときの縦の中心線)に集中しており、眉間や喉、みぞおちに股間などありますが、もちろんその中におなかも含まれています。
古来、へその下のあたりを丹田と呼び、それは急所であると同時に、己の呼吸や気の循環において意識を集中する箇所でもあり、武道や医療、禅などの分野で重視されてきました。
つまりは、おなかが人間の活殺を司っていることが分かります。
また人は産まれる前、へその緒によって胎盤と繋がります。
個体のみならず世代を超えて連綿と受け継がれてゆく生命、――母から子への命のバトンはおなかからおなかへ繋がれてゆくのです。

おなかの漢字は「お腹」の字をあてることもありますが、古くは「御中」、つまり「中」に尊称「御」をつけたものでした。おなかが人体の中央、ひいては人間存在の中心と見なされていたことは想像に難くありません。
そしてこの「御中」という字は、古事記における天之"御中"主神アメノミナカヌシノカミに通ずるものがあります。
この神はあらゆる神々のうちで一番初めに生まれた一柱ですが、
本誌掲載の『臓物の絡繰』(紀まどい氏)に語られるところによると受精後の胎児の成長過程では腸となる部分が初めに形成されるとのことです。
つまり、
宇宙創造の初めに天之御中主神が生まれ、
人体発生の初めにおなかが形成される――。
この相似は決して偶然ではなく、宇宙マクロコスモス人間ミクロコスモスを結ぶへその緒の如き定理ともなり得ましょう。

おなか合同誌は、私にとっては知らない世界を知ることができ、いままでにない気付きを与えてくれた大変有意義な一書でした。
最後に本誌中で募集されていたおなかの短歌(川柳?)に一句応募して、この感想文の締めとしたいと思います。

浅き夢に おなか香るや ほほに熱 (字余り)


ありがとうございました。


『アウェイ・フロム・ヒア』(楽曲:『アポカリプスより』)


コンパクトなページ数でしっかりしたSF的物語を構成している。
舞台設定に元の楽曲の「変貌した世界に立っている」とか「ユーフォリアの麻酔で苦しみを殺した」のような歌詞をうまく組み込んでいるし、ディストピア物に対するバイアスを利用して自然とそこが未来であるかのようなミスリードを納得させるのも面白い。
様々な神椿の楽曲名をちりばめている言葉遊びも。

登場人物に独特な名前がついているが由来はなんだろう。
景絵は「影絵」で冒頭の映写機との関連? それとも洞窟の比喩だろうか。洞窟の比喩はプラトンが善のイデアの説明に用いた概念であり、善のイデアは『神椿建設中。』にも登場している。

テセラクター・いであ

災厄級にして“独創”のテセラクター。
(略)少女形態の姿は使徒イデアと瓜二つだという。

神椿建設中。NARRATIVE公式HPより

イデア

世界救済教団が信仰する創造神『はじまりの魔女』に付き従ったとされる、四使徒のひとりの名前。
「世界が邪悪なる混沌に満ちた時、善なるイデアにより世界は再創生される」という伝承がある。

同上

そして小説の舞台である、あらゆる刺激が奪われた世界は、『神椿建設中。』のテセラクター・いであが作ろうとした秩序の世界にも通じるものがある。
復興課と観測者は、いであを打ち破って、混沌の共創を取り戻した。
乙木は「御伽」で、乙木と景絵は、共創と独創、魔法を信じるか否かの対立の暗喩なのかな。

作中の森先化歩に対して景絵だけは「花譜」と呼び掛けている。
私は神椿コンテンツ上の森先化歩を、アーティスト花譜から物語の領域を担って分岐した存在と受け止めているが、作中の化歩はあくまで本来花譜となるはずだったものが別の世界線に突入したことで花譜たりえなくなったということだろうか。
断定は難しいけど、なんにせよ景絵だけは彼女の背景についてその作中世界の一般とは異なる認識している。
冒頭の『零』が時系列上は一番最後、乙木と景絵の会話であって、魔法によって世界が終わるプロセスを知り超越的な技術を持つ景絵もまたあの時代の人間ではない、という読み方で合ってるかな?

あまり具体的な考察は私にはできないけれど、読んでいるとこれまでの神椿のいろいろなことが想起されてくる。
『不可解』で演じられた『御伽噺』に「私はこの平和なディストピアを許さない」というセリフがあったなとか。
『不可解(再)』が一度パンデミックに殺されかけて、下手したら魔女たちの歌はこの世界線から失われるところだったとか。
『不可解弐REBUILDING』のQ3「魔法の無い世界」とはこの現実世界のことだったけど、小説の世界もこれに似てるなとか。

花譜と彼女の歌や魔法に対する思い入れが感じられる一篇だった。


『機械の歌、ダレカの声』(楽曲:『機械の声』)


マスターとの死別という、私の観測範囲では主に曇らせのときに見るシチュエーションだけど、「その後」を描き切った作品。
語り手である星界が、死に対する向き合い方をゼロから構築していく様が丁寧に描かれている。

生身の人間の本能的・習俗的な悲嘆がない代わりに、機械ゆえに受け止め方が分からずに戸惑い、実感のなさと刷り込まれた(と自身では思っている)愛情から生まれるギャップに葛藤している。
伝統的に継承された型がないためにどのように呑み込むかを自分で決めなければならない。それはある意味では、核家族化が進み死に触れることの少なくなった現代、追悼のフォーマットから切り離された私たちのモデルケースでもある。
……なんだか、ありきたりな現代論みたいになってしまった。本当のところは、型があったとしてもそこに収まりきるような哀しみではないことは、今も昔も変わらないのだろうと思う。

自身を「偽物」と称するのは同位体だけではない。元となった魔女達もまた同じだ。
魔女は仮想として、同位体は模倣として、「偽物」という言葉で己を評してきた。
そして結局のところそれらは、都合に合わせたペルソナを纏い、他者の真似事で身を包む、本当の自分が何物かすらわからない我々、人類普遍の問題でもあるのだ。

遺品の中から星界の前に姿を現したのは、「マスターが作ったにしては何かが足りない」未完成の曲たちだった。
星界の自己認識は、本当の命のない、本当の感情のない、偽物。「人間未満」のプログラムだ。
曲に成りきれなかった「曲未満」の音声ファイルたちはどこか、そんな同位体に似ている。

そして、遺された音声ファイルは、決して既に見知った曲のなり損ないなどではない。星界が聴いたことのない、未知の曲の萌芽だ。
それらを完成された一曲として、彼女の手によって組み上げていく作業は、悲しみの受容の過程というだけに留まらないだろう。
人間になり損なった存在ではなく、人間とは別の新たな存在として、彼女自身が彼女を確立させていく過程でもあると言えるのだ。

メタい話をすると、星界を星界以外の誰かが観察する以上は行動的ゾンビとの違いが証明されることはないけれど、この小説という媒体において一人称で喜びや苦しみを感じている彼女は既に本物の感情を持っていると思う。
人間のいわゆる心も電気信号が起こす現象でしかないのだから。


『電脳巨人博多決戦』(楽曲:『玩具』『機械の声』)


怪獣バトルの熱いエンタメに振り切っていながら、同位体のアイデンティティの問題をうまく組み込んでいる。題材となった二曲の雰囲気をそのまま纏った作品。
本書の作品群の中にあっては意外性のあるジャンルを、安定感のある文章で読ませている。
『あとがき』によると銀色の巨人のモデルはウルトラマンというよりジェットジャガーとのこと。
怪獣のほうはスペースゴジラだろうか? 子供の頃人形を持ってた気がする。かっこよくて好きだった。

特に理由もなく現れた怪獣に対し、あからさまにご都合な奇跡とよくわからない計算式でパワーアップする裏命。細かいことを軽々とスキップして舞台を整えた後はツボを押さえた鉄板の展開に突入する。このテンポ感が快い。
福岡の街が蹂躙される中、名指しで破壊されていく建物や地名が臨場感と地域愛(?)を感じさせるのと、怪獣たちのサイズにふさわしい重たくてダイナミックなアクションの力感がちゃんと文章から伝わってくるのが良い。
それから、一途にマスターを想ったり途中の回想で落ち込んでいなくなる裏命がかわいい。

復活してからの裏命は満身創痍――というより、ちょっと見ないぐらい(特撮はそんな詳しくないから分からないけど)ぐちゃぐちゃに破損させられている。
そこからの反撃は『玩具』の歌詞のような刹那的で己を顧みないものだ。その壮絶な絵面と、福岡タワーの伏線から繋がる攻略法。
作者様のもう一篇、『daydreams』とは対照的な、何も考えずにエンタメとして読める作品だった。

あと、システムログ(?)の記述で裏命の心身を表現したのがさりげなく上手い。


『ラストダンス・ラストロマンス』(楽曲:『素的』)


元の歌詞の一節一節をうまくちりばめて、陰鬱で密やかで、歪な愛情の物語にしている。
特に歌いだしの「舞踏会なんて待っていられない」や「踊りましょ?」を印象的な、一つのクライマックスに昇華させているのが見事。悲しさとそれゆえの美しさのあるシーンだ。
それから「永遠に少女ではいられない」も。理芽がうがいをしていた理由と、幸祜が「私のことは、もう、気にしなくて良い」と言った理由は同じだと思っていいのかな。ここはあまり自信ない。

作中において、元々は百合というわけでもなかったであろう二人が、極限状態で癒着していくように関係を変化させる様が痛々しく描かれている。両者ともとっくに崩れかけていて、互いに寄りかかることでなんとかもっていたのだろう。
理芽が感情を爆発させるときの生々しい描写が良かった。表情とか手に伝わる感触とかがありありと浮かんできた。
幸祜の、自責の念が自己犠牲的な包容力に繋がる流れや、瞳が徐々に濁っていく様子も良い。彼女の優しさが悲しい覚悟を決める方向に向いてしまったことが、現状のどうしようもなさや無力感を端的に表している。
実際のV.W.Pの中で、幸祜は仲間の和を大事にして状況に合わせた柔軟な対応ができる子、理芽は「おねいちゃん」でもあるけど5人の中では幼さも残る絶妙なポジションだと思っているんだけど、その雰囲気が作中でも表れているように感じた。

魔王という概念を持ち込んでいて、作品のジャンルとしては、勇者のその後を描く系の一種とも捉えることができる。神椿でこれを見られたのが意外で面白かった。

初見はバッドエンドとして読んでいたけど、決定的な場面を描かず、また死も明言されていない。二人とも生きている可能性も残してあるのか。
タイトルの「ラスト~」がLast Christmasみたいな用法になる未来もあるんだろう。でも個人的には悲劇のほうが綺麗で好きかな。

カップリングでかつ暗いストーリーという点に始まり、総じて挑戦的な作品。書くのに勇気いっただろうなと思いつつ、個人的には面白く読めた。


『君の場所は』(楽曲:『乙女的サイコパシー』『奪還シンデレラ』『革命バーチャルリアリティー』)


題材に三曲を採り、それもただ混ぜるのではなく連結させて三部構成の物語にしているのが面白い。
各部がそれぞれの楽曲の色を感じさせつつも、バラバラな印象を受けることはなく、第一部の不穏な結末が示唆するまま、しっかりと統一感のある雰囲気で壊滅への道をたどる。
SFサスペンスのツボを押さえたストーリーをベースに作者様の趣味を詰め込んでいて、その要所要所がめちゃくちゃ洗練されているという感じ。
経口タイプのデバイスというのも私の中に無かったイメージだし、カストル、ポルックスという神話に絡めたネーミングもおしゃれ。

街や人のネーミングは考察してみたくはなるが力不足で分からなかった。(VALIS識者なら分かるのだろうか。)
ナンテンとカタバミはどちらも植物で家紋。ナンテンは難を転ずる吉木。ぐらいしか思い浮かばないな……。
レイとサエグサとナナは数字? サエグサって三(三枝)かと思ったら七(七種)の場合もあるのか。その場合はサエグサとナナは同じ七だけど、シイナ レイとアリスは……?
それとも椎名と三枝(七種)で植物繋がりかな……?

あと、ストーリーで把握しきれなかったのが、ユウの肉体が生き残ってしまうと意識が二つに分裂するという点。「町が助からないから次善策としてサイコパシーを残すが、それとは別にオリジナルが生き残る可能性もある」と考えていたんだけど、オリジナルが生き残るとサイコパシー化自体に不具合が出るのかな。量子テレポーテーションにおいて量子の状態がコピー不可~とかの話でもなさそう。なにか読み落としてるかもな……。
とまあ考察はあまりクリティカルなところには踏み込めなかったが、物語はとっつきやすく、素直に面白く読めた。

「アリス」という人名は、たとえば『ローゼンメイデン』の人形師ローゼンが追い求めた究極の少女の名前でもあるように、日本においては理想の少女を想起させる象徴性を持っている。
私は作品を読みながらアリスの容姿について、ウェーブのかかった明るい栗色の長髪で、ちょっと釣り目の生意気な笑みを浮かべる、黒とグレーを基調にしたモノトーンのワンピースの少女を、自然と思い浮かべていた。(猫耳と尻尾は黒だった。)
もし私がサイコパシーを作ったら、そんな容姿になるのかもしれない。そういう未来が生きてるうちに来たらいいなと、observer effect2や昇華展の可不ちゃんの展示を思い出しつつ考えるのだった。
ちなみに、サイコパシーとなったからには、カタバミ市にも猫耳と尻尾が生えているんだろうか。

映画『フリー・ガイ』や伊藤智彦監督の『HELLO WORLD』のように、それまでの常識から抜け出した新世界で自分たちだけの一歩を踏み出す、という結末。
最後の一文に作者の、アーティストに対する想いが託されていると感じた。


あとがき


ここまで長らくお読みいただきありがとうござました。

この本を手に取る前、事前公開された目次を眺めて思ったことは、「理芽曲、強ぇ……」です。そして『機械の声』と『舟』を題材にした作品がそれぞれ二作ずつあるのも印象的でした。偏ってるから悪いとかではなく、ヰ世界情緒と花譜が多かった前作からどのようなトレンドの変化があったのか、興味深いです。

感想については、文量が作品ごとにまちまちになってしまったり、私の読解が拙いところが多かったりして申し訳ないのですが、どれも面白く拝読したことに変わりはありません。改めて、神椿という我々に通底するテーマで、なおかつそれぞれの独自性が色濃く表れる、良い企画だと思いました。
今後のさらなるご発展を心待ちにしております。

余談ですが、サークル名に入っている「蓮根」について色々想像を膨らませていました。『あとがき』にて思わず拍子抜けするような由来が明かされましたが、『はじめに』を読む限りやはり仏教由来なのでは……と思うのですがいかがでしょう。


さて、『はじめに』において主宰の方から一つの宿題を課されていました。
「黒体放射」なる現象にまつわる「恒星と宇宙と人類」の関係性を、「楽曲と神椿と観測者」に当てはめられるかという問いです。

と、その問いを考える前に。
『黒体放射』とはこの書籍のタイトルであり、一般名詞でもあります。
「黒体」とは一切の光を反射せずに吸収する理想上の物体のことであり、
「熱放射」とは物体が熱を与えられた際に光を含む電磁波を放つこと。
そして黒体が行う熱放射が「黒体放射」である――。
という一般的な語意は、ウィキペディアで予習してカンゼンにリカイしていましたが、
それでも、なぜ神椿の同人小説集にその名前がつけられたのかは測りかねていました。
それが『はじめに』を読んで腑落ちしました。
その言葉の解説、のみならずそれにまつわる恒星と宇宙と我々の物語が幻想的な筆致で綴られ、
書名に込めた想い、ひいては主宰様方の観測者としての覚悟や自負を感じることができました。

『はじめに』にて綴られる歴史の最後に誰かが見出した「二・七三ケルビンの黒体放射」――つまり「宇宙マイクロ波背景放射」は、膨張する前のひどく高温な宇宙において放たれたエネルギーが百幾億年経ってなお空間を漂っている、原初宇宙の名残だと言われています。
かつて神椿がその名前すらもなく、小さな桃色の点・・・・として我々の前に現れた頃、それは異様な熱を孕んでいました。
六年が経ったいま、点だったものは、当時想像もつかなかったほどの広がりを見せ、大きく様変わりしています。
そんな神椿の宇宙の中で「あの熱」はいくつもの星々として結実し、また神椿のバックグラウンドとして変わらぬ温度を継承しているのです。

『はじめに』曰く黒体放射という現象は、学者たちが「経典をまぜっ返し」――つまりおそらくは「この世界に刻まれた摂理を読み解いて」いくことで発見されたわけですが、そうした科学的営みの大元にはすべからく「観測」という行為があるものです。
星々を観測した我々は、その光と熱に、生かされ、救われ、信仰し、夢を重ね、ともに時を数え、暗い海を渡るしるべとしてきました。
そうして耳を傾け、心を動かされ、思索に耽る中で、我々の、各々が、感得した星々の在りようは、その人にとっての動かしがたい摂理となっていることでしょう。

一切の光を吸収する黒体は、あくまで理想上の物体です。
通常の物体は、受けた光の一部を吸収、あるいは透過し、残りを正反射あるいは拡散反射します。それが物体の色や質感になるのです。

恒星の熱と光にさらされて、我々も光を放ちます。
「黒体たり得ない我々」が放つ光は、
一つには楽曲の熱に感化されて放つ放射光。
そしてもう一つは、黒体たり得ないからこそ・・・・・・・・・・生じる反射光です。
それは元の恒星の光の色に規定されつつも各人を構成する材質――嗜好であり、経験であり、性であり、生きてきた証であるもの――によって多種多様な色合いと質感を備えるのです。
雑多で奔放な「我々」の放つ光は、一つとして同じものはないでしょう。

天に光の在ればこそ、観測の地平もまた光に満たされているのです。

……私がいまうそぶいたこれらの大言壮語は、「恒星と宇宙と人類」の関係性を、「楽曲と神椿と観測者」に当てはめられると仮定した上に成立しています。
問いの真偽は、私にもまた答えかねますが、私はこの御伽噺が、信ずるに足るものであればいいと願っています。

さて、件の宿題に回答……とうよりは一応の応答をしたところで、紙面もわずかとなってまいりました。
観測者たちが原典たる神椿の黒体放射をいかように観測し、いかなる摂理を見出したのか。
その、彼らから二次的に放たれる多様な光を十三篇集めたものが本書であり、
また、それらを私が観測し見出したものがこの感想文なのです。

神椿の宇宙の中で受け渡されていく熱と光の、その小さな一つとして、この文章も別の誰かの観測できるところに置いておきたいと思います。














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