御伽噺ver0.92の感想と、ちょっと花譜と不可解のこと。ネタバレ配慮(たぶん)
はじめに
さる2024年8月13日(火)~15日(木)に開催された、
バーチャル舞台劇『御伽噺(染) ver0.92_prototype プレミア上映会』についての感想です。
しっかりした文章ではないけど、twitterに載せるにはやや字数が多いということでnoteへ。
前提として、
・ストーリーのネタバレはしないでほしいとの公式見解に準じて配慮しています。
・そのため神椿スタジオや『御伽噺』を知らない方には全くもってちんぷんかんぷんな文章になっているかと。
・ネタバレ配慮しますが、セリフやシチュエーションなどに若干触れるので、未鑑賞の方は一応注意してください。
それでは・・・
といってもネタバレなしの感想って難しくない?
まず、演技が良かった。
神椿外から出演された本職の方々は言うまでもなく、神椿のみんなもそれぞれの役柄を全うしていて、ありがちな「演技の粗が気になって物語に集中できない」とかいったことが全くなかった。
今作に向けた稽古だけでなくアニメ化の準備もあるだろうから演技方面は努力を積んでいることだろうと思ってはいたけど、正直、実際に見てみるまで心配もあった。しかし上演中にそんな懸念を思い出す間もないくらい物語を楽しめたし、各キャラクターの人柄や感情の発露を感じられた。
特にVALISはさすがの安定感で、ララさんがX(twitter)でポストしてたとおり“悪役として輝”いていた。
自分の席が遠くて、視覚的には大まかな体の動きしか分からなかったけど、それでも佇まいや声の演技と併せて、しっかりキャラが立っていた。
台本販売してほしい
ストーリーラインは把握できてると思うんだけど、細かい部分はちゃんと確認したいし、やっぱどうしても記憶は薄らいでいってしまうのよね。
「セカイ」がイリヤの空みたいなことを言うところも、自分の語彙にある単語(フィラデルフィア実験とかセイラム裁判)や、後のシーンに正式名称が出てきた「BOW」はなんとか記憶に残ったけど、それ以外はすっぽ抜けてしまった。
一言一句大事にして、ちゃんと理解したいんだ。
PIEDPIPERは、自身がクオリティに納得してない作品が流布することを嫌がる節があるから、プロトタイプと明示した今回の上演も同じように考えてるのかもしれない。
今後、バージョンアップによって大小の変更や旧バージョンとの矛盾が生じる部分もあるかもしれない。
でも、“回を重ねるごとに少しずつ内容をアップデートしていく、成長型作品”だからこそ、その足跡ひとつひとつを誇って、ちゃんと残してほしい。
映像媒体はだめでも、なんとか台本は販売してほしい。できれば出演者の書き込みとか入ってるやつ。
良いなぁと思ったセリフ
「セカイ」が、終演の挨拶のひとことめで「御伽噺$${\underline{\text{への}}}$$鑑賞、ありがとうございました」と言った気がして、助詞の使い方に違和感を覚えたけど、そのあとの話の運びからしてあれは「御伽噺への干渉」と言ったんだな。
公演名に続く「カンショウ」という音から自然に想起される「鑑賞」をミスリードに使いつつ洒落の「干渉」が話の意味的にもしっかりとはまって成立する名文句だった。
……と、これも私の聞き違いでなければである。ちゃんと答え合わせがしたい。
台本販売してください。
例のシーンについて
そういえば、一部で話題になっていたらしい、「花譜のガチ恋勢は見ない方がいいシーン」について、私はガチ恋とかではないので、むしろもっといろんな役に挑戦してほしいという感じなんだけど、それとは別の部分でダメージを受けていて。
ライブ『不可解』で上演された『御伽噺』(仮に旧『御伽噺』とする)は、「君」の一人称視点で、花譜や理芽が「君」に語りかける形式だった。
一方、このたびの新しい『御伽噺』(新『御伽噺』とする)は、観客は神の視点におり、旧『御伽噺』の「君」にあたるポジションは主人公の「シン」が担っている。
つまり、これまで旧『御伽噺』を見てきた立場からすると、
ああ、あのとき花譜が語りかけていた「君」は自分じゃなかったんだ、
という現実を突き付けられることになるのだ。
「自分だと思っていたものは自分じゃなかった」
奇しくも今作の、「自身が○○だと知った○○」と似たようなアイデンティティの崩壊を味わうことができるのはポイント高い(いや、辛い)。
結局『御伽噺』ってなんなんだ
いま話題に出した新旧の『御伽噺』についてもうひとつ。
『御伽噺』という物語の位置づけを整理したいのだ。
『御伽噺』は、
KAMITSUBAKI STUDIOが紡ぐ物語の根源に迫る、幻のジュブナイル「御伽噺」。
とも銘打たれるとおり、花譜の重要なファクターだ。
私は『御伽噺』を含む神椿の作品世界をそんなによく分かっていないのだが、最初のライブ『不可解』から上演されてきたこの物語には、分からないなりに愛着がある、のみならず花譜という世界を構成する大きな要素として認識している。
花譜というプロジェクトは、表舞台に出るためのアバターを纏った彼女を中心に、様々なifの物語が取り巻く複合体のようなものだ。
『御伽噺』は、最初期に明かされた物語であるだけに花譜と不可分のものに感じられるが、それでもいわゆるVtuber界隈のトレンドであったり、花譜自身の成長だったりに合わせて、花譜自身と物語的設定との同化具合は、下がってきている。
おそらくは『御伽噺』も数あるifの内のひとつにすぎず、花譜本体を表す言葉はあくまで「日本の何処かに棲む、何処にでもいる、何処にもいない女の子」程度のものなのだろう。
『御伽噺』を必要以上に花譜自身と紐づけて考えるべきではない。
――ここまでは私の「理性的な理解」である。
だが、『不可解』の中で演じられた旧『御伽噺』は、単なる演目のひとつには留まらず、花譜の本質、謎めいた花譜の秘められた背景の物語、少なくともその可能性の一端であったはずなのだ。
だって、『不可解』のエンドロールの後、すべてが終わった後に観測者に語りかけてきたのは、『御伽噺』の花譜だったのだから。
新『御伽噺』の事前情報としては公式HPの以下の文章がある。
花譜の1st ONE-MAN LIVE「不可解」の中で触れられた未だ全容が語られない「完成しない物語」をバーチャル舞台劇「御伽噺」として再構築したジュブナイル
花譜の1st ONE-MAN LIVE「不可解」で、ライブコンテンツの一つとして初披露された「御伽噺」。このライブ以降、朗読劇という形式で度々ライブ中に断片的に表出してきたストーリーを、今回「バーチャル舞台劇」として大幅に創り直し作品化します。
どちらにも共通するのは、新『御伽噺』は旧『御伽噺』を継承しつつ大きな変更が加えられているとの言だ。
では、『御伽噺』に加えられた変更とは、単にストーリーの改変程度のものなのだろうか。それとも花譜という存在の中で『御伽噺』が占める意味までもを変えるものなのだろうか。
実際に鑑賞してみると、確かに共通するキーワードは多く、ストーリーや人間関係についてもごく低レイヤーの部分のみではあるが共有している。
そして、同じく事前情報のとおり、それ以外の部分はまるで違う。
そもそも世界観や設定が「何かに搭乗して戦う」ようなジャンルのSFに大きく舵を切っていることはHPの情報から察せられるが、作中世界に起きた出来事も、彼女との出会いの経緯も、彼女がやろうとしていることも、旧『御伽噺』とは異なっているのだ。
同じ単語を使いこそすれ、そこに別の意味を与えている。
いま展開している作品群には、旧『御伽噺』の「かふ」や『神椿市建設中。』およびアニメに登場する魔女の娘「森先化歩」がおり、彼女らは花譜のプロジェクト上のパーソナリティに近いように思える。
そして、新『御伽噺』は、既存のそれらのイメージとは、あえて別方向の世界観に突出させた感がある。
このタイミングで新たな作品として世に出すにあたって他の作品群と差別化する意図があったり、PIEDPIPERの心象を物語として成立させるために再編するための都合もあったりするのだろう。
一応、旧『御伽噺』では多くの情報が伏せられていたのだから、もしかしたら当時からすでにPIEDPIPERの中にはこの景色があった可能性もなくはないが、新旧を比較するに、個人的には考えづらかった。
以上のような変化について、観劇の視座においては、否定的な感情ではなく新鮮な驚きと面白さを覚えた。
だが一方で、正直なところ、あの『不可解』で垣間見たもの、薄闇に見え隠れしていた「彼女の背景」の正体がこの新『御伽噺』かと言われると、気持ちの折り合いをつけるのは難しそうだ。
好き嫌いではなく、見えていた世界がガラリと変わってしまったために起こる、無意識の領域の、認識の齟齬による戸惑いだ。
あの日、不確かな情景の一角を成していた御伽噺は、すでに私の中での花譜と渾然となっていて、別の何かに置き換えられるものではなくなっていたのだ。
さて、『御伽噺』公式Xにてポストされたカウントダウンの動画では、新『御伽噺』の「カフ」について花譜の口から以下のような説明がされている。
これまでの自分(花譜)のワンマンライブなどで登場していた、秘密めいた雰囲気の花譜とはまた違って、すごく自分の気持ちに素直で、感情表現もうまいというか(略)表に出ちゃうみたいな、まっすぐな子で、自分とそういうところが真逆
旧『御伽噺』の「かふ」は(こちらも厳密には花譜自身とは異なるが)、口下手で、素朴で、世界を見限っていて、自身と「君」だけを信じ、独りで静かな灯を燃やしていた。
新『御伽噺』の「カフ」は、活発、お転婆で、目的のために強い意思をもって行動する果敢な人物だ。食事するシーンなどは、あざといぐらいに可愛い。
旧『御伽噺』が演じられてからこれまで、花譜は年齢的にも成長したし、その中で、稀有な密度と多様さでもって様々な経験を積んできた。
多くの大人に囲まれて活動をこなし、一緒に歌う仲間ができて、ライブMCや配信やメディアで自身の言葉を紡ぐ力を養い、留学に行き、ギターやダンスや声優といった新しいことに果敢に挑んできた。
そんな彼女だからこそ満を持して演じられるようになったのが、新『御伽噺』の世界であり「カフ」なのだ。
新『御伽噺』のイントロダクションには、
“KAMITSUBAKI STUDIOが紡ぐ物語の根源に迫る、幻のジュブナイル「御伽噺」。”とも書かれてはいるが、おそらく新『御伽噺』と旧『御伽噺』は峻別されるべきものなのだ。
『御伽噺』は、いまの神椿、いまの花譜に合わせて、変わるべくして変わった。
そしてそれは、「あの頃の御伽噺」とは同じ名前の別の存在なのだと思う。
花譜の新たな局面、新しい可能性のひとつとして生まれた「いまの御伽噺」を観測できたことは、掛け値なしに嬉しい。
そのうえで、私はまだあの仄暗く密やかな『御伽噺』の中に生きている。
P.S. そういえば旧『御伽噺』も魔女の物語だと思い込んでいたけど、読み返してみると「かふ」が魔女だという表現は出てきてないんだね。
(そもそも魔女という単語自体ほぼ出てこない。)
私が花譜や『不可解』と『御伽噺』を必要以上に一体と誤認しているのかもしれないな。
「今日から明日の世界を変えるよ」について
今回の内容について基本的にポジティブに受け止めてるんだけどひとつだけ。
劇中で「カフ」が言っていた「今日から明日の世界を変えるよ」という言葉。
本来これは、ライブ『不可解』で詠唱され、「すべてをうたにかえてうたう」に繋がる言葉だった。
音楽は魔法で、魔法は現実や社会に抗うための最後の光明だった。
魔女は、希望の体現だったはずだ。
ちょっと、それだけ言いたい。(ネタバレ禁止だからね!)
まだ前編を見ただけだから、後編でまた新たな答えが与えられるんだろうか。
さいごに
出演者の演技や映像表現のクオリティが高く、今後に控えるVer1.11や後編、アニメへの期待が高まる内容だった。
「アップデート」はマイナーチェンジ程度の改良を重ねるということだとは思うんだけど、もし旧『御伽噺』から新『御伽噺』への変化と同等の作り替えをこれからも控えてるなら(ver1.**からver2.**に上がったときに世界観がガラッと変わるとか)それも面白いと思ったり。
とりあえず各バージョンの台本はほしいです。できればサイン入りのやつ。
終