三千世界への旅 魔術/創造/変革10 ユダヤ人の「魔術」2
初めに放浪ありき
今日私たちが「ユダヤ人」と呼んでいる民族の祖先は、最初メソポタミアの都市ウルに住んでいたとされています。旧約聖書によると部族の長であるアブラハムが神から「約束の地カナンを与える」との約束を与えられ、部族を引き連れてそこへ移住したといいます。
「カナン」とは大体今のイスラエル・パレスチナにあたる地域です。
まあ、「創世記」とか「出エジプト記」とか、旧約聖書の最初の部分はユダヤ教徒の神話・伝説ですから、これが歴史的事実かどうかということとはまた別ですが、歴史学の成果も踏まえているらしいカレン・アームストロングの『神の歴史』によると、この移住は紀元前20〜19世紀あたりのことだったと言います。
ただ、アブラハムは神話上の人物なので、この移住がひとりの部族長に率いられて1回で行われたものとはかぎらないようです。
アブラハムのことを「学者たちは紀元前三千年の終わり頃に、自らの民をメソポタミアから導き出し、地中海に向かった放浪の首長の一人だろうと考えている。」と彼女は言います。(カレン・アームストロング『神の歴史』 高尾利数訳 柏書房刊 P.28)
この頃、アブラハムが率いてカナンに移住した部族は、ユダヤ人ではなくヘブライ人と呼ばれていました。「ヘブライ」とは「渡り歩く人」を意味するという説があるようです。
これが正しいとすると、何度も移住したから「渡り歩く人」「ヘブライ」と呼ばれるようになったのではないかと思われるわけで、やはり移住は一回ではなく、何度も繰り返されているうちに、そう呼ばれるようになったということなのでしょう。
迫害と逃避
そもそも彼らがなぜメソポタミアのウルからカナンへ移住したのか、旧約聖書は彼らの神ヤハヴェからの命令があったという以外の理由を伝えていません。
実際には、まわりの部族と争いがあって、負けて追い出されたといったようなことがあったかもしれません。
しかし、旧約聖書は彼らの祖先が神との約束とか命令にしたがって行動したから生き延びることができたという、宗教的な観点・主張でまとめられているので、何か世俗的な理由があったとしてもそこは無視して、神の命令によってということにしたんでしょう。
その後紀元前17世紀頃、彼らの一部が古代エジプトに移住しましたが、旧約聖書では、当時のヘブライ人の指導者ヤコブの子ヨセフが、兄弟たちに憎まれて商人に売られ、エジプトに連れて行かれたことが発端ということになっています。
ヨセフの夢判断
旧約聖書の物語によると、ヨセフには夢を見てその内容を分析し、神のお告げとして解釈できる能力があったといいます。彼はエジプトの高官の家に売られ、下僕として働いていましたが、夢判断の才能を認められて、王の夢判断を依頼されます。それが高く評価され、ヨセフは王宮で厚遇されます。
その後いろいろあって、ヨセフはカナンに残っていた兄弟たちと和解し、彼らの一族もエジプトで暮らすようになります。
後のストーリー展開を考えると、これは単にヨセフの家族・親族がカナンからエジプトに移ったということではなく、ヘブライ人の中核をなす部族がエジプトに移住したということだったようです。
後にモーセが多くのヘブライ人を率いてエジプトを脱出することになるわけですから、エジプトに個人として売られたヨセフや、彼に呼ばれてエジプトに移った親族の他にも、多くのヘブライ人がエジプトに移住したのではないかと考えられるわけです。
ヨセフのリーダーシップ
ヨセフは夢判断ができただけでなく、統治者として優秀だったらしく、エジプトとカナンが天候不順で飢饉に見舞われたとき、保管しておいた穀物で民を救ったといったことが旧約聖書に書かれています。
これはヨセフがエジプトとカナンの両方にいるヘブライ人のリーダーになっていたということでしょうか。
そもそも「創世記」の時代にヘブライ人がカナンに暮らしていた、農業も営んでいたというのは、彼らがモーセの時代にカナンに移住したことを、自分たちの故郷に帰ったのだと正当化するための神話、創作なのかもしれませんが、僕は聖書学者じゃないので、そのへんのことにはこだわらず、こんな感じの移住があったのかなということをおさえるだけで、先へ進みます。
エジプトでの「迫害」
旧約聖書によると、エジプトの王朝が交代すると、新しい王朝はヘブライ人を虐待するようになり、泥こねや瓦づくり、農耕の下働きなどの労働を強制されるようになりました。
ヘブライ人はエジプトで奴隷として暮らしていたという説がありますが、旧約聖書の記述から推測すると、人格を認められず労働する家畜として売買される奴隷というほどでもなかったようです。
ヨセフの活躍で、エジプトに住むヘブライ人は前の王朝から厚遇されていたけれども、新しい王朝の下ではそういう既得権益のような優遇がなくなり、よそ者、移民にありがちな冷遇を受けたということなんでしょう。
旧約聖書だけに頼っていると、そもそもヘブライ人がエジプトに住んでいたのも歴史的な事実なのか疑わしいということになりそうですが、これについてはエジプトの古文書に、「土木工事で働くヘブル人」といった意味の言葉が出てくるらしいので、彼らがエジプト社会の下層民として暮らしていたことは、一応事実ではあるようです。
ただ、これがどれだけ屈辱的な冷遇、迫害的なことだったのかはまた別です。後にカナンの地で自分たちの王国を建設したヘブライ人が、その繁栄から逆算して、エジプトでの自分たちの苦労を「冷遇」「迫害」と捉え直したのかもしれません。
エジプト脱出
『神の歴史』によると、ヘブライ人は紀元前13世紀頃、指導者モーセに導かれてカナンへ移住したようです。これが旧約聖書で「創世記」の次、「出エジプト記」に出てくるエジプト脱出です。
この物語は『十戒』というタイトルでハリウッド映画になっています。モーセに率いられてエジプトを脱出しようとするヘブライ人を、エジプトの王が軍隊を率いて追跡し、ヘブライ人たちは海に阻まれて立ち往生してしまいます。しかし、そのとき海が割れて陸地が現れ、彼らは無事に脱出。追いかけようとしたエジプト王と軍隊は海に呑まれて溺死してしまうという物語です。
その後、モーセは神と直接交信して新しい戒律「十戒」を授けられ、約束の地カナンへと移動します。そこに住んでいた部族と抗争しながら、彼らは次第にこの地域の支配権を確立していきます。ヘブライ人が自分たちをイスラエル人と呼ぶようになったのはこのカナン移住後のことだと言います。
約束の地カナン
ここまでの経緯を見てみると、ちょっと疑問がわいてきます。元々カナンはまだ「創世記」の時代、ヨセフがエジプトに移った時代に、ヘブライ人が住んでいた土地だったはずです。
ヨセフがエジプト王室に認められて成功した後、カナンに住んでいた兄弟たちと和解して、エジプトとカナンの民を飢饉から救ったと書かれているわけですから、その時点でもヘブライ人はエジプトだけでなくカナンにもいたわけです。
どうしてモーセは改めて、神から約束の地としてカナンを与えられなければならなかったんでしょうか? 元々カナンにいた彼らはどうなってしまったんでしょうか?
たぶんヨセフからモーセまでの間には、エジプト王朝の交代があったくらいですから、何百年とかかなり時間が経過していたんでしょう。その間にカナンにいたヘブライ人は没落して土地を追われ、エジプトのヘブライ人に吸収されてしまったのかもしれません。
そこで改めて、モーセ率いるヘブライ人はカナンに再入植することになったということでしょうか。
ヨセフの時代からモーセの時代まではかなり時間が経過しているようですから、その間にカナンはまた別の部族・民族が暮らす地域になってしまったということなのかもしれません。
なんだかパレスチナ人が暮らしていた土地にユダヤ人がイスラエルを建国した20世紀の話と展開が似ている気もします。そこが先祖の土地だったとしても、年月を隔ててそこに帰還すると、その間そこに暮らしてきた別の部族・民族がいるわけですから、けっこう厄介なことになります。
流浪の民ユダヤ人は神話の時代から現在まで、そんな土地と異民族・他部族とのいさかいを経験しながら生きてきたわけです。