映画『バービー』はフェミニズムよりもスピリチュアル的なメッセージが刺さった話
今年8月に公開されてから何かと話題だった映画『バービー』ですが、
行こう行こうと思いつつ結局見に行けなかったので、先日DVDをレンタルしました。
そこでいろいろと感じたことがあったので、今回は映画『バービー』の感想を書きたいと思います。
まだ見てないけど興味あるんだよねという方はネタバレ含みますので、薄目で見るか飛ばし飛ばし読んで下さい(読む前提)
さて、映画『バービー』ですが、冒頭から少女たちが赤ちゃんの人形をぶっ壊すという衝撃的なシーンから始まります。
(このシーン、名作映画『2001年宇宙の旅』のオマージュらしいのですが、過去に難解すぎて視聴を挫折した経験がある私は気づかず…)
バービー人形のコンセプトである“You can be anything"(あなたはなんにでもなれる)を象徴するように、
バービー人形が登場したことで、それまで赤ちゃん人形のお世話(=お母さんの疑似体験)しかしてこなかった少女たちに、
“女性ってお母さん以外にもなれるんだよ”と、無限の可能性をもたらした、というところから物語は始まります。
映画の冒頭には、“バービーのおかげで性差別や不平等は解消”というナレーションまで流れる始末。
“ハービー人形が誕生したことによって、男女平等で平和な世界がもたらされました。これにてめでたしめでたし♪”
…といきたいところでしたが、当然ながらそんな世界にはならず。
映画では、現実世界は未だに性差別やジェンダー格差が残るよね、という話の展開へと続いていきます。
バービー人形の誕生が、アメリカのフェミニズム史において具体的にどういった役割を果たしたのかは詳しくないので置いておいて、
ここで疑問に感じるのは、『バービー』はフェミニズム映画なのか?ということです。
私自身が思うのは、“バービー人形の持つ二面性”がそのまま劇中に反映され、それがフェミニズムにもアンチフェミニズムにもなるのではないかということです。
劇中で、“バービーで遊んだのは5歳まで”と話すティーンエージャーの少女が、人間界に来たバービーに放ったセリフがあります。
さらには
と畳みかけます。
それに対してバービーはたじろぎながらも、
と反論しますが、
ととどめを刺し、最終的にはバービーを泣かせてしまいます。
映画の冒頭に流れる歌の歌詞に、
“私たちといえばPINKでしょ”
“どの色もいいけど映えるのはピンク”
“バービー 魅力的なスタイル”
と、女性のステレオタイプのメッセージがこれでもかと詰め込まれ、
“私たち”ってだれ?
ピンクが好きじゃない女性は女性じゃないの?
ピンクが似合わない女性は女性になれないの?
女性は魅力的なスタイルでいないといけないの?
といった疑問を潜在的に見る人に持たせ、それがご紹介した少女のセリフへとつながっていきます。
また、映画の最初で、バービーが住むバービーランドの女性が
と語るシーンがありますが、わざわざ女性の登場人物に語らせることで、
“女性は感情的になりやすく男性と比べて論理的思考力が劣っている”という、女性のステレオタイプを表現しているようにも感じます。
他にも、“バービーはおバカ(bimbo)”というセリフもでてきたりします。
つまり、バービー人形最高!ガールズパワー最高!女子って最高!
と表面的には謳いつつ、その裏には女性を軽視するようなシーンが映画のそこかしこにちりばめられています。
極めつけは、先ほど紹介した少女の母親が、“バービーは私に夢をくれた”とバービーに語ったのに対し、その少女は信じられないといった様子で、
と言い放つのですが、ものすごいミソジニー(女性蔑視)である反面、見事な心理描写だと感じました。
もともと私たちの中には、ミソジニー(女性蔑視)とミサンドリー(男性蔑視)が混在していて、それが現代の生きづらさの原因の一つになっていると感じているのですが
映画『バービー』は、
“バービーみたいになりたい”(いつでも可愛くハッピーな愛され女子でいたい)
けど、
“バービーみたいになれない”(スタイルよくない、可愛くない自分を好きになれない)
という理想と現実のはざまで苦悩し、それが女性一人ひとりの中にミソジニーとなって存在している姿が巧みに描かれているなと感じました。
そんな『バービー』ですが、物語は、女性が優位だったバービーランドがケン達(バービーの恋人)によって一時的に乗っ取られるものの、
バービーたちの奮闘によってふたたび女性が輝く国へと返り咲き、めでたしめでたしとなります。
それが、
やっぱ女性って最高だよね!となればフェミニズムとなり、
バービーが体現する世界観はうすっぺらくて非現実的なだけ、となればアンチフェミニズムとなる。
個人的には、そんな印象を受けました。
ここまで語ってきましたが、私が映画を見た感想は、社会風刺映画としてはなんとなく物足りなく、かと言って娯楽映画として見るには妙に生々しくて現実的すぎる(特にラストシーンが)
といったものでした。
というのも、“男も女も女が嫌い”という現代社会に存在する強烈なミソジニーに対する救済とも呼べるようなシーンが、個人的に見当たらなかった印象だったからです。
もちろんこれは見る人によって違うだろうし、いろいろあったやんけと突っ込まれるかもしれないのですが、
もともと皮肉屋でひねくれたところがある自分としては、いまいち物足りない印象でした。
バービーみたいになりたいけどなれない、母親業も仕事もイマイチと嘆く母親と、
反抗期でミソジニーを内包するその娘の和解がもっと丁寧に描かれていたらよかったのかもしれませんが、
劇中では母親に対するカタルシス的なシーンは描かれるものの、バービーを心底毛嫌いしていた娘はいつのまにかバービーの味方として母親とともに協力する立場となり、
フィクション特有のご都合主義的なストーリー展開だったので、少し残念に感じました。
母親が女性としてのコンプレックスとしてミソジニーを内包していることはもちろん深刻ですが、10代の娘がなぜミソジニー的な感情を抱くようになったのか、
その過程とそれに対する癒しのような描写がもっとあればいいなと思いました。(特に思春期のミソジニーはより複雑でやっかいな気がするので)
そもそも、性別による生きづらさを語るとき、“女性ばかりずるい”、“つらいのは女性だけじゃない”といった形で
男性vs.女性の二項対立でとらえられてしまいがちですが、問題の本質はそう簡単な構図ではないと感じます。
『バービー』の関連記事に、
とあるように、本質は男性と女性どちらが優れているか、偉いかということではないのです。
お互いの良さを認め合い、足りないところは補い合っていけばいい。
そもそも、男性であっても男性であることが苦手な人もいるし、女性であっても女性であることが苦手な人もいます。
また、男性も女性もどちらの性別も惹かれない、興味のない人もいます。自分の性別を定義できない、したくない人もいます。性別で人を区別すること自体が、ナンセンスで今の時代にそぐわないのです。
“男女平等”を、女性(もしくは男性)も男性(女性)並みに権利を与えられるべき、という定義に限定してしまうのではなく、
男性でもいろんな人がいて、女性でもいろんな人がいて、そもそも自分の性別をそのどちらかにも定義したくない/できない人もいて、
いろんな人がいる中で、みんなが尊重されて大切にされる社会を目指そうという視点が大事なんじゃないかと感じます。
足りないところを補い合うからこそ“完全”なものになるし、足りないところがあるからこそ“不完全”を認め合うことができる。
そういった前提に立つことで初めて、性別が良し悪しの物差しからただの属性の一つに過ぎなくなり、
それが、今日の社会からなんとも言えない生きづらさを取り除く一つの手段になるのではないかと感じます。
と、かなり前置きが長くなってしまいましたが、
じゃあ『バービー』ってよーするにパッとしない、イマイチな映画なの??
と思われてしまいそうなのですが、スピリチュアル的な観点から見るととても素晴らしい映画だったのではないかと感じました。
あまり多くは語られていないようなのですが、『バービー』にはもう一つ重要なテーマが練りこまれています。
それはズバリ、“生と死”です。
バービーは人形であり、序盤はバービーランドの住人として喜怒哀楽の“喜”と“楽”しか描写されません。
毎日仲間と歌って踊ってハッピー♪で、ネガティブな感情とは無縁の生活を送っています。
当然のことながら人形なので生殖機能もなく(劇中堂々と“ない”と語るシーンもある)年を取ることも子どもを産むこともありません。
それが、人間界に降り立ち自分と遊んでくれた女性の記憶をたどるうちに、
人間の感情の複雑さに触れて感動し、“胸が痛むけど、ステキ”とつぶやき涙を流します。
そして、公園でさまざまな人の姿を目にするうちに、偶然居合わせた高齢の女性に
“あなたは美しい”
とつぶやき、その女性は
“知ってる”
と答え、笑い合います。
バービーが体現する世界観のもう一つの特徴として、
女性は美しく若々しくいなければ価値がない
といったものがあります。
そしてまた、
それでいて、いつでも謙虚で目立ってはいけない
といった、見えない呪縛に悩まされることが描写されています。(劇中では、“男社会での理不尽な女性像”と表現されています)
しかし『バービー』には、人間の真の美しさの基準とは、“若さ”や“女性らしさ”や“男性らしさ”ではなく、生きていることで生じるすべての痛み、重み、鈍さを引き受けることである
というメッセージが込められているように感じます。
(もしかしたら、フェミニズム云々以前に、このメッセージこそ製作者が伝えたいことかもしれません)
それまでは、喜怒哀楽の“喜”と“楽”しか経験したことがなかったバービーが、
まだまだ理想と現実のギャップが残る人間の世界で、それでも懸命に生きる人たちの姿を目にし、
喜怒哀楽の“怒”や“哀”の素晴らしさを知る。
物語終盤で、バービーはケンがベッドに突っ伏して泣いているところにかけより、こう語りかけます。
(それに対してケンが、「俺は“今どきの男”(liberated man)だから泣くことが弱さじゃないことくらい知ってる」と反論するのも、また風刺が効いてます)
生と死が与えられ、限りある次元で生きるからこそ、人は醜くもなり弱くもなり涙を流すこともあります。
しかしそれは必ずしも悪いことではなく、むしろ素晴らしいことなのです。
ここからはちょっとスピリチュアルな話になりますが、本来私たちの魂には性別が存在しません。
バービーランドのように、望めばなんでも叶う高次元の領域で暮らしていた私たちは、
ネガティブな体験を通して感動を経験するため、肉体という制限を持つこの地球に生まれてきました。
そういった背景を踏まえながらこの『バービー』を見ると、人間界に降り立ったバービーが私たちの存在と重なります。
そして、そこでさまざまな生きづらさに触れる中で、生きることの素晴らしさに気づくのです。
人間には“老いる”という変化があり、その変化を受け入れるということ。
大事なのは、その過程を嘆き悲しむのではなく、いかに自分らしく楽しめるかということ。
始まりがあれば終わりがあるということは、必ずしも悲しいことではなく、
終わりがあるからこそ、人は今この瞬間を大切に生きようと思えるのだということ。
物語の終盤で、ミソジニーを抱えていた母親はマテル社(バービーを作った会社)のCEOにこう提案します。
母親だけが女の子のゴールじゃない、女性にもっと自由と選択肢を、という描写から始まった『バービー』ですが、
物語の帰結として、
母親がゴールでもいいし、そうじゃなくてもいい。
大事なのは、自分らしく生きること、そしてそれが幸せだと感じること、というメッセージが込められています。
そしてもちろんこれは、女性だけではなくあらゆる性別の人に当てはまります。
だからこそ、性別関係なくあなたはあなたでいる必要があるし、あなたはあなたでいていいのです。
~おわりに~
この記事の途中で、社会風刺映画としてはなんとなく物足りなく、かと言って娯楽映画として見るには現実的すぎる
と書きましたが、記事を書く中で見返すうちに結構いい映画だなと思いました←
特に、ラストシーンで、バービーの生みの親である女性が登場し
と語っているところなんかは、単なるフェミニズム・アンチフェミニズムの枠を超えた、人類に対する深い愛情を感じました。
ただし、一番最後のシーンで人間界で生きることを決意したバービーが放った一言があるのですが、
アメリカ映画らしいな~という感じでした。(ここでは省略します)
アメリカらしいと言えば、多様性に配慮が足りないとして、ダウン症のバービー人形が誕生したのとは対照的に、
日本ではリカちゃん人形の多様性は、まだそこまで広がっていないようです。
(※バービーの宇宙飛行士は1960年代に誕生、一方リカちゃんの宇宙飛行士は2023年と約60年の開きが)
以前書いたセサミストリートの記事でも触れましたが、アメリカの多様性の規模には驚かされます。
そこで、じゃあ日本は遅れてるの?というと、そういう面もあるのかもしれませんが、
リカちゃん人形はリカちゃん人形で、“現実ってリカちゃんみたいにキラキラ女子じゃいられないよね~”という動画が投稿されてバズっている現象もあり、
バービー人形、リカちゃん人形、それぞれが女性のアイコンとして、現代の世相を反映する形で今なお多くの人々に愛されて支持されているようです。(それぞれの文化を比較してジェンダー史を深掘りしても面白そうです)
ちなみに、ケン役としては年を取りすぎている(1980年生まれ)と一部批判が出たライアン・ゴズリング氏ですが、
映画を見た個人的な感想としては、男性としての苦悩と悲哀(記事では詳しく書けませんでしたが)を体現するのには
やはりそれなりのキャリアがある俳優さんではないと務まらないと感じたので、適役だったのではないかなと思います。(『ドライヴ』『ラ・ラ・ランド』『ブレードランナー 2049』を見ていたので余計に)
以上、いつもの記事より長くなってしまいました。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました😊
※参考リンク
※関連記事