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体調不良から日本の子育て問題や性に関する権利にたどり着いた話


約2カ月前から原因不明の体調不良になって以来、病院に行っても異常が見つからず、精神的に参っていました。

最近は症状が落ち着いてきて、スピリチュアル的な知識のおかげもあって、自分の中でも“こういうもんなんだろう”と落としどころがついてきたため、

なんとか折り合いをつけながら日々過ごすことができています。

そんな中で、今回の記事を書くきっかけとなったnoteの記事があります。

それがこちら。

直凪さんが書かれたこちらの記事はフィクションとされていますが、読んでからしばらくは、頭を殴られたような衝撃で(いい意味で)

深い共感となんともいえない感情が自分の中に湧きおこりました。

こちらの記事は、“妊娠”や“子育て”や“中絶”といったキーワードから、女性であることの悲哀のようなものが繊細かつ大胆に描写されているのですが、

私はこれまで、子育ての負担が母親に集中しすぎていることや、そのせいで子どもが抱えなくてもいい生きづらさを抱えてしまうのではないかということを記事に書いてきました。

社会から孤立した母親は子育ての責任を過度に引き受けた結果、そのプレッシャーから毒親になってしまうのではないか。

つまり、毒親というのは特殊な人たちだけを指すのではなく、誰でもなり得るものなのではないか。

とくにこの日本では子育てしている者に冷たく、親(母親)が孤立しやすい社会システムなのではないか。

その負の連鎖を断ち切り、自分をまるごと受け入れ愛することで、ありのままの自分らしく生きる方法はないのか。


noteを始めてから1年以上、私が記事を書く動機にあるものは、なんとも言えない生きづらさの正体が知りたいという気持ちと、その生きづらさからいかに脱却するかでした。


なぜこんなに子どもを育てるのに負担が大きいのか?


そしてさらに、最近美容院で目にした雑誌で、『子育て罰』という本が紹介されていました。

この本の中で、子育て罰とは

社会のあらゆる場面で、まるで子育てすること自体に罰を与えるかのような政治、制度、社会慣行、人々の意識。

親、とくに母親に育児やケアの責任を押し付け、父親の育児参加を許さず、教育費の責任も親だけに負わせてきた、日本社会のありようそのもの。

としています。

著者の末冨芳氏と共同執筆者で“子育て罰”という単語の生みの親とされている桜井啓太氏は、

子育てを担う親(特に母親)が今日の日本の中でいかに金銭的、精神的に負担を強いられているかを、数々のデータや他の研究者の本を引用しながら説いています。

私は30代半ばで独身ではありますが、亡くなった姉の子たちと長年同居しており、

児童福祉の仕事についていたこともあって、子育ての大変さはある程度はわかっているつもりでした。

そんな私ですが、本に書かれている今日の悲惨な現状や日本のゆがんだ社会システムの詳細を知り、圧倒されてしまいました。

子育てするのに十分でない所得しか得られていない。その背景には、子育てをすること自体が貧困につながるような不利な社会構造がある――。

第2章「子育て罰」と子どもの貧困より引用

高額で待機児童だらけの保育サービス。残業・長時間労働があたりまえ、おまけにジェンダー差別・育児差別の激しい企業風土。正規/非正規の賃金格差は著しく、新卒一括採用のレールから外れることに冷淡な労働市場。家族手当は雀の涙ほどで、教育にお金がエグいほどかかる。とどめに子育て世帯をほとんど優遇しない税制度――。

第2章「子育て罰」と子どもの貧困より引用

私は社会福祉士の資格を所持しているものの、政治や制度など語れるほどの知識はないのですが、

一つだけ言えるとしたら、今の日本は子育て罰の空気が漂っているということです。

著者の末冨氏は、子どもをベビーカーに乗せていたときに、2回ほど見知らぬ通行人にベビーカーを蹴られた経験があると記しています。(※男性・女性それぞれから)

このエピソードからも、“子どもは邪魔な存在”と考える人たちが性別問わず一定数いることがうかがえます。

またそこから、“まわりの人に迷惑をかけてはいけない”という意識を親に植え付ける風潮につながっているのではないかと感じます。

私は以前飛行機に乗った際、すぐ後ろに座っていた小さい男の子が吐き出してしまい、CAさんを呼んだり他の人から差し出されたおしぼりを手渡したことがありました。

しかしその両親は始終申し訳ない…といった暗い表情で、あたかも罪を犯したかのような重苦しさを漂わせていました。

また、混雑したスーパーの製氷機の前で、袋を持たずに並んでいた親子に持っていた袋(2つ)を譲ったことがあったのですが、

父親が息子に氷を入れさせたと思ったら、“もう一つはもう一回並んでから入れようね”と言い、並びなおしていました。

後に並んでいた私に気を使ったのか、袋をもらったことに罪悪感があったのかわかりませんが、

“子どもが氷を袋に入れるのは時間がかかってあとの人が迷惑になる”と、その父親は思ったように感じました。

しかし私としては、わざわざ並びなおさなくてもいいのになと、なんだかモヤモヤしました。

子どもはうるさい生き物です。じっとしてられません。時間がかかってしまうこともあります。そして、それでいいのです。

それなのに、なぜ子どもを連れているというだけで、社会の中で“邪魔者”や“厄介者”扱いされなければいけないのか。

なぜ親がときとして病的に思えるほどの配慮をまわりにしなければならないのか。

末冨氏も、

「静かにしていない」のは、子ども自身の責任ではありません。子どもという存在を、静かでお行儀よくできなければ「理想の子ども」ではないという価値観を押し付けてきた大人社会の責任なのです。

第3章「子育て罰大国」はどのようにして生まれたか

と記しています。

子どもを持つことは当然のことながら罪ではありません。『子宝』という言葉があるように、子どもによってもたらされる豊かさは計り知れません。

そんな『子宝』を『負債・・』にしてしまうような制度や空気感の正体がこの本に具体的に書かれており、

日本における子育て問題の根深さを思い知りました。


“子宮”は誰のもの?日本の女性をとりまく性の権利について


また、

現代社会においては、家族や家族の中に隠されてきた女性差別と社会からの排除が、母親と子どもを「密室育児」と呼ばれる状況に陥れ、子どもを育てづらい社会にしてきたことがすでに明らかになっています。

第3章「子育て罰大国」はどのようにして生まれたか

とあり、自分自身が育ってきた環境から深く共感しました。

私は、これまで投稿した記事でも似たようなことを書いてきました。

この“女性差別”はいったいどこから来るのか。

なぜ日本では、ここまで顕著なほどに女性ばかりが子育ての負担を強いられているのか。

その問いの答えを出せるほど十分な知識がないのですが、子育て罰の記事が載っていた雑誌に、経口中絶薬が承認されたことが紹介されていました。

そして、その記事から女性差別がどこからくるのか、その一端が垣間見えたような気がしました。


ヨーロッパでは何年も前から経口中絶薬が承認されていて、保険が適用されたり、自己負担であっても安価に入手することができるとされています。

経口中絶薬は日本では2023年4月に承認されたものの、指定された医師による処方と入院が必要であること、自由診療扱いとなることから、そこまで普及することはないのではと指摘されています。

そもそも中絶に係る費用は原則自己負担で、なおかつ配偶者の同意が必要とされています。

しかし、配偶者の同意が必要としている国は日本を含め11ヵ国のみとされ、国連からも是正が必要だと勧告されています。

この配偶者の同意が必要というのは、100年以上前にできた『堕胎罪』という法律が背景にあるとされています。

「日本には刑法の『堕胎罪』(刑法第二十九章 堕胎の罪)があります。明治時代の、妊娠したら女性は出産しなければならないという考え方に基づいて、中絶そのものを罪とする法律です。

中絶に「配偶者同意」…どうして日本の女性には「自分の体」の決定権がないのか?より引用

この、“妊娠したら女性は出産しなければならない”という考え方は、リプロダクティブ・ヘルス/ライツに反しています。

リプロダクティブ・ヘルス/ライツとは、1994年に提唱された概念で、

人々が政治的・社会的に左右されず、「子どもを持つ」「持たない」を決める自由を持ち、自分たちの子どもの数、出産間隔、出産する時期を自由に決定でき、そのための健康を享受できること、またそれに関する情報と手段を得ることができる権利のことです。

印西市 リプロダクティブ・ヘルス/ライツって?より引用

とあります。

しかし、BBCのインタビューで、予期せぬ妊娠に苦悩した日本女性は、こう答えています。

「子どもができたタイミングで女性は、女性であることではなく、母親であるということを求められるような気がして」

日本ではなぜ経口中絶薬に配偶者の同意が必要なのかより引用

「つまり母親になるということには、子どものために全てを犠牲にしなさい、それはすばらしいいことでしょう? という価値観が内在されているように感じる。だから、私の体ではなくて、子どものために生きる体なんでしょう? と言われてる気がします」

日本ではなぜ経口中絶薬に配偶者の同意が必要なのかより引用


こうした、昔ながらの家父長制を引きずった価値観のまま現代まで法整備がすすめられなかった結果、

“妊娠したら原則産むことを想定し、中絶したい場合は配偶者の同意が必要”で、なおかつ中絶費用は全額自己負担といった、

現代にそぐわない倫理観が、女性差別として制度という形で存在しているのではないかと感じます。


私自身は妊娠や出産とは縁のない世界で生きてきたので、子育てでの苦労や女性差別を身をもって経験してきませんでしたが、

子どもと同居してきた身として、出産後すぐに新生児が捨てられる事件をニュースで聞くたびに、なんとも言えない気持ちになります。

そしてその背景には、さまざま問題があることを今回改めて知りました。



最後に、子育て罰を知るきっかけとなった雑誌をご紹介します。

その雑誌とは、VERY9月号です。

VERYは20代~40代の子育て世代をターゲットにした雑誌なのですが、私は勝手に“キラキラなおしゃれママを目指す雑誌”という認識で、若干の苦手意識を持っていました。

キラキラでもママでもないけど、美容院においてあるから仕方なく読むか程度の認識だったのですが、

そこで、子育て罰や中絶薬のことなどが紹介されていました。


社会に対して、これってどうなの?と感じるとき、やはり大事なってくるのは一人ひとりの意識だと感じます。

子育てのこともリプロダクティブ・ヘルス/ライツのことも、独身・既婚または性別や年齢関係なく、みんなで考えていくことが重要なのではないでしょうか。

そもそも、私はVERYに対して、単なる“キラキラママ向けのおしゃれ雑誌”という、見えない“偏見”を持っていました。(※ライターの方自ら自虐的に言及している記事があり、これまた面白かったです)

『子育て罰』の末冨氏も、

女性/男性、高齢者/現役世代、一般国民/上級国民など、あらゆる社会集団同士がお互いに冷たくしたり攻撃し合ったりします。残念ながら、今の日本は、そうした冷たく厳しい、そして悲しい社会です。厳しいのは、子育て世代に対してだけではないのです。

としています。

私はあなたではないので関係ない。
問題を抱えているのはその人の自己責任。

そう切り捨てるような風潮が、今の社会にうっすらとそれでいて隅々まで浸透しているように感じます。

そしてその意識の始まりが、自分と違う属性の人に対する無理解や無関心に思います。

当事者でなくても、人の痛みをどれだけ理解し寄り添えるか。
立場や年齢・性別を超えて、いかにみんなで支え合えるのか。

これからの時代、子育てや女性の性に関する権利だけではなく、

支援の手が届かない孤立している人達に対してどう向き合うのか、

政治や行政を担う人のみならず、私たち一人ひとりにその在り方が問われていると感じます。




ここまでお読み頂き、ありがとうございました😊🕊




※参考サイト



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