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小説『結婚3分前』後篇
「何が違うのよ」と百合子は問い詰める。
「つまり……大人になったのよ」
「妥協したのよ」
「大人になるには、妥協する事も必要なのよ」
「あんたの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったわ」
百合子は妙に大人ぶった事を言う美里に頭にきていた。
「それに男ってさ……女次第で結構変わるもんよ」
美里は話の方向性を少し変えようと試みた。
「へえ! あの冴えない旦那が、どう変わったって言うのよ? 突然、身長が伸びたりした?」
「それは無理だけど……あたしはハイヒール、あまり好きじゃないから……彼がちょっと踵のある靴を履けば、大して変わらないわよ」
「結局、シークレットブーツか……」
百合子は嘲る様に笑った。美里はもはや怒りを通り越して、そこまで男の身長にこだわる百合子に、ある種の同情を感じ始めていた。
「それだっていいじゃない」
「でも、あの体形じゃあね……何をやっても一緒よ」
「あの人、最近はダイエットしてるから、昔ほど太ってないわよ。私もカロリーの少ない食事を作るように努力しているし……眼鏡はコンタクトに変えたし……それから頭は……まあ、頭の毛はなかなか生えてこないわね……」
「ああ、もう聞きたくない!」
百合子は頭を掻きむしりながら立ち上がった。
「そういうのは嫌だって……一生に一度の選択なんだから、理想の相手に出会うまで頑張ろうって……そう約束したじゃない……裏切り者!」
「……そこまで言うかね」
一旦火がついてしまうと百合子の怒りは中々納まらない。腹の中に納めて置くべきことを全て吐き出してしまう。言わなくてもいい事まで言ってしまい、結果として相手を傷つけてしまう。いやむしろ相手をいかにして傷つけるかに夢中になってしまう。そして、どうしたら相手が傷つくか、百合子は良く知っていた。
「あんたが何で妥協してあんな奴と結婚しちゃったのか、知ってるわよ」
百合子は意味ありげな笑みを浮かべながら、美里を見下ろした。
「ええっ?」
「オーディションであたしに負けたからでしょ?」
「はあ?」
「高校卒業した年の夏、うちの近くで映画のロケがあって、二人してオーディション受けたじゃない。主人公の地元の友達の役……あたしは合格して、あなたは落ちた」
確かにそんな事があった。美里も忘れていた訳ではない。しかし、今この話の流れでその話題が出てくるとは思わなかった。
その映画は、地元出身の映画監督が故郷の自治体に声をかけ、町おこしという名目で地元の資産家から資金を集めて作られた作品だった。主役は元アイドル歌手で、結婚出産後は芸能活動を控えていたが、彼女の出世作を作ったベテラン監督に請われて、復帰作として出演することになったそうだ。彼女の役が百合子たちと同じ地方の生まれという設定になっていて、地元出身者にも出演してもらいたいという出資者たちの意向を受けてオーディションが行なわれ、百合子は主人公の回想場面に友人役として出演したのだ。
「ああ、友達ABCのCの役ね」
今度は美里の方が、百合子が傷つく様な言い方をした。普段は物分かりのいい大人としての役割を演じている美里だったが、女である事に変わりはない。どうしたら相手が傷つくか、百合子以上に良く分かっていた。
「でも、ちゃんとセリフあったもん」
「早く行かないと遅刻さするぞ……だっけ?」
「何であなたが言うのよ」
「散々聞かされたから覚えちゃったわよ」
「他にも三つあったもんね」
「でも完成された作品からカットされちゃったじゃない」
「……で、でもね、あたしはそれがきっかけで東京のプロダクションに入ったからね。あんたは腹いせに見合いして結婚しちゃったのよ!」
美里はポカンと口を開けたまま、すぐに次の言葉が出て来なかった。
「あんた、そんな風に思ってたの? あたしが見合いしたのはね、実家の造り酒屋を継いでくれる人が欲しかったからよ……あたし、好きなのよ、あの仕事……」
「強がり言って……」
百合子はそう言ったが、美里が本心を言っている事は分かっていた。
美里は小さいころから自分の家族が大好きで、家業に専念している父親の事を慕っていた。父の方もそんな彼女を可愛がり、酒蔵の中で日本酒がどうやって生まれるのか、幼い美里相手に講釈した。美里はただ黙って聞いていたが、そんな彼女の顔を見ながら、「こんな事は女の子に教えても仕方ねえべな」と言って話をやめてしまう事が多かった。
その父が病気で入院したのは、高校を卒業した美里が地元のスーパーのバイトを始めた頃だった。父の病気は末期の肺ガンで完治の見込みはなかった。毎日スーパーへ行き、帰りがけに病院に顔を出す日々が続いた。百合子からオーディションの話を聞いたのはそんな頃だった。正直、オーディションどころではなかったが、どうしても一緒に来て欲しいという百合子の頼みを聞いて、渋々参加したのだ。だからそれに落ちたところで何の痛手も感じなかった。むしろ間違って受かってしまったら、どうやって断ろうかと考えたくらいだ。
百合子が映画出演を終え、その時知り合った芸能プロダクションのマネージャーを頼って東京へ出て行った数日後、美里の父は息を引き取った。美里は百合子に知らせなかった。希望に胸を膨らませて旅立った百合子を、自分の父親の葬儀ですぐに引き戻すような事は心苦しかった。それに、父の死はあくまでも自分と自分の家族の問題であり、どんな事でも親友と分かち合うという少女時代の幻想とは、そろそろ決別しなければいけない事を美里は分かっていた。
父の初七日を過ぎた頃、叔母が見合い話を持ってきた。母はこんな時に、そんな話を持ってくるなんて非常識だと怒った。美里自身も、まだ高校を卒業したばかりで、結婚はまだ先の話だと思っていた。しかし叔母の言うには、生前父から頼まれていた事だというので、取りあえず相手に会うことだけは承諾した。
相手は父の取引先の酒屋の息子で、その頃は地元の農協で総務として働いていいた。美里とは九歳も年が離れていたが、写真を見る限りもっと年上に見えた。そう見える理由は、男の頭髪の状態にあった。九歳上とはいえまだ二十代であるのに、見事に額は後退し、少なくなった髪をしだれ柳状態に頭頂部に集めていた。若い女の子だったら何の遠慮もなく「バーコード・ハゲ」と表現したに違いない。おまけに身長も低く、小太りな容姿だった。そんな訳だから結婚式に集まった友人たちが、「美里はなんであんなので手を打っちゃったの」と言ったのも無理はなかった。
そんな、高校卒業したての女の子としては最も嫌悪するタイプの男であっても、「家業を継いでくれる」と言う条件だけで、他の全てに妥協をして結婚してしまった美里を、百合子は許せなかった。それは恐らく美里の決断が、百合子が人生において大事だと思っている数々の物事を、「そんなクダラナイ事にこだわるなんで馬鹿みたい」と否定している様に感じられたからだ。
「あんたこそ、東京へ行ったはいいけど、さっぱり売れずに、今はただのイベントコンパニオンじゃない」美里は反撃に出た。
「そこで婚活パーティーの情報を仕入れて、やっと見つけた相手なんでしょ? 何贅沢言ってるのよ!」
「だから言ったじゃない。あの人、私に嘘をついていたのよ。年収だって一千万じゃないし……」
話は振り出しに戻ったようだが、事ここに至ってまだそんな事にこだわっているのかと、美里は呆れていた。
百合子が結婚すると聞いた時、その相手について色々な人が色々な情報を美里に吹き込もうとした。曰く、「テレビ局のプロデューサーと結婚するとか言ってたけど、無理だったみたいね」「結婚するって事は女優の道は諦めたって事よね」「ようするに結婚に逃げたのよ」「でもIT系の金持ちのイケメンだって」「そんな訳ないでしょ? だって婚活パーティーで出会ったって」「要するにオタク?」「キモいオタクよ、きっと」などなど。
美里にしてみれば、相手が誰であれ、あの百合子が結婚する事を決めたのだから、そうとう肝の据わった男に違いないと、密かに感心していた。それなのに百合子は、相手の本当の姿など何も見ていなかったのだ。
「あなただって、沢山嘘を言ってるじゃない」美里はため息交じりに口を開いた。
「えっ?」
「年齢だって三つもサバ読んでるし……仕事の事だって……本当は女優として大きなチャンスがあったけど、あなたと結婚するために諦めました、とか言ったんでしょ?」
「な、何でそんな事を……」
見合い相手についた嘘を、いくら親友だからと言って美里が知っている筈がない。一体、どういう事なのだろう? 百合子は急に美里が怖くなった。
「……少し前にさ、新郎の祐介さんから手紙をもらったのよ」
「ええっ?」
百合子は驚いて絶句した。美里とあの人が連絡を取り合っていたなんて、想像もつかない事であった。
美里が自分のバッグから封筒を取り出すのを見て、それを奪い取ろうと百合子が手を伸ばした。美里は素早くその手を振り払うと、「ちょっと座って、聞きなさい!」と百合子を制した。怒りと羞恥に満ちた顔でしばらく美里の顔を見ていた百合子だが、やがて諦めた様にため息をつくとドレッサーの前の椅子に座った。
「長いから、肝心な所だけ読むからね……」
分厚い封筒から三つ折りになった手紙を取り出すと、ゆっくりとそれを広げ、最初の数ページを後ろにまわし、後半部分を読み始めた。
「……彼女とつきあい始めてから、彼女が小さな嘘をついている事に気づきました。自分の年齢のこと、女優業が実は上手くいっていないこと……それから本当は僕がそれほど好みのタイプではないと言うこと……でも、彼女がそれを表面に出さないようにしていることも、良く分かりました。僕は、そんな彼女がいじらしく思えてなりません」
自分に対するどんな罵詈雑言が書かれているかと恐れながら聞いていた百合子は、手紙の雰囲気が予想とは違う事に、不思議な驚きを感じていた。
「……僕は自分が大した男でないことを良く知っています。本当は彼女の様な美しくエネルギッシュな人には不釣り合いなのでしょう。でも、彼女とは上手くやっていけそうな気がします……彼女が僕に夢中になることはないとしても……彼女がホッと安らげる場所を作る事は出来ると思います……何故なら……正直に言いますが、僕は生まれてから今まで、こんなにも女の人を好きになった事がないからです。でも、口下手である僕は、そのことを上手く彼女に伝えられません。親友であるあなたから、何かの機会に僕の思いを伝えて頂きたく、この手紙を書きました」
美里の口から優しいトーンで読み上げられたその文面は、百合子の両方の目から再び涙を流させた。しかしそれは先程の悔し涙ではなく、心の奥の方から沸き上がって来る安らぎと感動の涙であった。
「本当は友人代表のスピーチの時に披露しようと思ってたんだけどね……いい人じゃない」
美里は手紙を再び元の通りに畳むと、封筒に戻して百合子に差し出した。百合子は嗚咽を漏らしながら、それを受け取った。やがてそれは子供の様な泣き声に変わって行った。
「何泣いてるのよ」
「だって……」
「泣きたいのはこっちの方よ……」
百合子の泣き声はさらに大きくなった。美里は母親が子供を諭す時のように、膝を折って百合子の顔を覗き込んだ。
「で、どうしたいの? 本当にやめる? 結婚式? だったら言ってくるわよ」
「えっ?」
「そろそろ決着つけないと……いつまでもここに閉じこもっている訳にはいかないでしょ?」
と言いながら立ち上がると、入り口の方へ歩きだした。驚いた百合子が「だめだめだめ」と追いかけてきて、美里の腕を掴んだ。
「何が駄目なの? 結婚するの? しないの?」
「する。する」
「ほんとに? 今まで散々文句言ってたじゃない」
「言わない。もう言わない」
百合子は、母親に怒られた子供が、何とか母親に許してもらいたいと思っている時の様に、唇を噛み、上目づかいになって、美里を見つめた。この表情に世の馬鹿な男たちは弱いんだろうなと思いつつ、美里自身もそんな馬鹿な男たちと同じように、すでに百合子を許す気になっていた。と言っても「彼にちゃんと謝るのよ」と釘を刺すのは忘れなかった。
「あたしが?」
半生を通じて男に頭を下げた事のない百合子は、最後の抵抗を試みた。
「当たり前じゃない。彼だって傷ついているわよ」
百合子が新婦控室に閉じこもってからすでに三時間以上過ぎていた。その間、じっと待たされている新郎の心の内を想像すると、さすがに胸が痛い。
「分かった……」
百合子は渋々ながら頷き、美里の命令を受け入れた。
「じゃあ、向こうへ行って、彼に話してくるから」
「……ありがと」
美里は安心させる様に軽く百合子の肩を叩くとドアの方へ向かった。その後ろ姿に百合子が「美里」と声をかける。
「ごめんね……いろいろとあんたの事、悪く言って」
振り向いて改めて百合子の顔を見た美里は、思わず吹き出しそうになった。涙と鼻水と汗でメイクが目茶苦茶になってしまった百合子は、自分でくしゃくしゃにした髪形も相まって、まるでゾンビ映画の登場人物の様になっていた。
「化粧、直しておきなさいよ。でないと本当に嫌われちゃうわよ」
苦笑しつつそう告げると美里は廊下へ出て行った。
一人残された百合子は、なんだか気が抜けたような感じだったが、次第に身体の内側から喜びが沸いてきた。
美里に何もかも打ち明けて、長い間心の内に秘めていた思いを全てさらけ出した。その上、本当はこの結婚で一番心配していたこと、だけど怖くて確かめることが出来なかった事を確かめる事が出来た。つまり、自分は本当に愛されているのかという疑念だ。それを確認した今、本当に安心して結婚が出来る。そう思うと自然に鼻唄を歌い始めていた。
それは式場で流れるはずのウエディング・マーチだ。「タタターン」と口ずさみながら、もうすぐ自分の夫になる愛しい人が書いた手紙をもう一度読み直した。その長い手紙の中で自分が一番感動した部分、「正直に言いますが、僕は生まれてから今まで、こんなにも女の人を好きになった事がないからです」という一節を百合子は何度も読み直した。自分に語りかけるように声に出して読んでみたりもした。心の奥から、幸せの笑みが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
あまり笑ってばかりもいられなかった。鏡の中を覗き込むと、すっかり化粧のとれたゾンビ女がにやけているではないか。やばい。すぐにメイクを直さないと、美里の言うように彼に嫌われてしまう。
百合子は、読んでいた手紙を大事そうに鏡の前に立てかけ、化粧をしながら例の一文を読めるようにした上で、メイクの修繕に取りかかった。それは困難だがやりがいのある作業だった。しばらくして、まだ修繕作業の途中なのに、美里が小走りに戻って来た。
「あら早かったわね。彼、何て言ってた? 私がやっぱり結婚するって言ったら、嬉し涙を流していた?」
「……もういなかったわ」
「えっ?」
「……そんなに僕の事が嫌なら、お互いの幸せの為にこの結婚はやめましょうって……そう伝言を残して、帰っちゃったって」
百合子はその言葉の意味を理解するのに何秒もかかった。
それは永遠とも言える時間だった。やがて言葉の意味が自分の頭の中で分解され、再構築され、つまり「自分が彼にフラれた」という事を理解すると、立ち上がって「えーっ!」と絶叫した。
数時間後、百合子は六本木にあるクラブのVIPルームで、呆然と座っていた。
「結婚式直前に花婿に逃げられた花嫁」という、自分の人生に起こるはずもない立場に立たされた百合子は、軽い記憶喪失に陥っていた。ぞろぞろと引き上げる参列者たち、泣き叫ぶ母親、無表情で後かたづけをする式場のスタッフ……それらの映像が、音のない映画の様に頭の中に映し出されるだけで、その間いったい自分が何をして、どうやってそこを抜け出し、なぜ今このVIPルームにいるのか、まるで思い出せなかった。ただ、美里がその混乱の全てを仕切ってくれた事、彼女の力強い腕が、自分を引っ張っていた事だけが、記憶の底にあった。
「お待たせ」
VIPルームのドアが開き、カクテルグラスを二つ持った美里が入って来た。ドアが開いてまた閉じるまでの一瞬に飛び込んできた、クラブ特有の低音を強調した激しいビートが、百合子を現実に戻した。改めて見渡すと、その部屋には革張りのソファが点在し、パーティーが出来る広さがある。部屋の片側はガラス張りでダンスフロアが見下ろせるようになっていた。
「さてと、乾杯しようか?」
「何に乾杯するのよ?」
美里のやけに陽気な態度にムッとしつつ答えた。
「えっ、だって晴れて自由の身になれたんでしょ? 理想の相手を求めて、今日もまた都会の夜をさまよい歩く恋愛のジャンヌダルク、佐藤百合子に乾杯!」
とおどけながらクラスを差し出すが、百合子は乗ってこない。さすがにまだそこまでの元気はなかった。
「あんた……あたしがあの男に逃げられたのが、そんなに楽しい?」
「あら、私はあんたと違って、他人の不幸を喜ぶような性悪じゃないわよ。何せ人生に妥協した女ですから」
と嫌味を言って挑発しても、百合子はただため息をつくばかりだ。
「なに落ち込んでるのよ。あなたにとっては良かったんでしょう? 妥協せずに、もっといい結婚相手を探すことが出来るんだから。ほら、見なさいよ。いい男が沢山踊っているわよ」
美里は立ち上がりガラス越しにダンスフロアを見下ろした。暗い照明の中、着飾った男と女がまるで深海魚のように身体を動かしている。防音されているため強烈なダンスビートは遮断されているが、それでも微かに重低音とテンポの速いユーロビートは伝わって来た。
「あ、ほら、あれなんかどう? DJブースの前にいる茶髪で鼻ピーしている奴。いいじゃない、あれ。あんた好みじゃない?」
と嬉しそうに喋るので、さすがに気になったらしく、やっと立ち上がって隣に立ち、美里が指差す方を見たが、すぐにまたため息をつく。
「もう、ああいうタイプには興味わかないわ」
「あら、そう? 好みのタイプ、いつの間に変わったの?」
「ああ、逃した魚は大きかったかな……」と再びソファに座り込む。
「今更、何を言ってるのよ。一生に一度のことだから、絶対に妥協したくないの! とか吼えてたくせに」
「でもさあ、こうやって改めてここにいる連中を見てるとさあ、どれもこれも生活能力なさそうだし……女とヤルか、金を貢がせるか、そんな事しか考えてないって感じだもんね」
「あら? いい人かどうかより、いい男かどうかが問題なんじゃないの?」
「けっ」
痛いところを突かれた百合子は、やけになってグラスをグイっとあおった。それに付き合うように美里もグラスを飲み干す。
「とにかくさ、今日はこのビップルーム貸切だから……本当は結婚式の三次会用に借りてたけど、パーになっちゃったからね。皆も帰っちゃったし、あんたが好きに使っていいから……いい男、捕まえて適当に連れ込めば?」
などと言いつつ帰り支度をする美里を尻目に、ぼんやりとダンスフロアを眺めていた百合子は、ハッとなって立ち上がった。
「あ、あれ、いま階段を降りてきた、あの人……」
「どれ?」
「フロアの入り口あたりでキョロキョロしている人……あれ、いいじゃない! 爽やかな感じで、こういう場所に染まってないみたいだし……ちょっと背は低いけど、凄くいい!」
と入り口あたりに目を凝らし、百合子は夢中になり始めている。
「あ、こっち見た。あ、笑ったよ。手を振ってる。ねえ、あたしの方を見て手を振ってるわよ」
百合子も興奮気味に手を振り返した。そして、「ほら見なさい。まだまだ私は捨てたもんじゃないわよ」とでも言う様に自慢げに美里を振り向くと、彼女も同じように手を振っているではないか。
「何であんたが手を振るのよ! あたしが先に目をつけたんだからね!」
と怒る百合子に、困惑気味にしかし少し自慢げに美里は答えた。
「あれは私の旦那よ」
「えーっ!」
再び百合子は絶叫した。
「う、うそ! だって、あのチビでデブでハゲのメガネだった? あり得ないでしょ?」
「だから言ったでしょ? ダイエットしたって」
「いや、でも……」
「メガネはコンタクトにしたし、靴はちょっと踵の高いのにしたし……」
「は、ハゲは?」
「……やっと決心したみたいね」
「えっ?」
「前からカツラはどうって言ってたんだけど、ずっと抵抗していて……でも、私の親友の結婚式だから、ちょっと頑張ってみようかって言ってたの。結構、自然に見えるわよね」
百合子は、ダンスフロアの端っこでキョロキョロと周りを見回している美里の夫を改めて見ながら言った。
「……すごくイケてるじゃん」
「言ったでしょ。男は女次第で結構変わるって」
百合子は悔しいけれど、美里の言葉を認めざるを得なかった。
「ああ、こっちに来なくていいって……上で、上で待ってて、すぐに行くから……あ、伝わった、伝わった」
人混みの中どうやって妻のもとへ行ったらいいのか迷っている夫に向かって、美里は大きな手振りで合図を送った。夫は美里のジェスチャーの意味が分かったらしく、ダンスフロアから離れて、地上に続く階段を上って行った。
「すぐに行くって、どういう事?」
「今日は子供の心配もしなくていいから、ちょっとデートしようと思って」
「デート?」
「レインボーブリッジを見ながらブラブラして、その後はホテルでラブラブ? 彼、ああ見えてベッドの中では凄いのよ。今夜は二人目が出来ちゃうかしら……きゃあ、何を言わせるのよ」
などと言いながら百合子の背中を思い切り叩いて一人で盛り上がる美里を、百合子は呆然と見ていた。
「何よ。あたしを一人、おいて行くつもり?」
「あ、ほらほら、さっきの鼻ピーが手を振ってるわよ」
ダンスフロアを再び指さしながら、荷物をまとめて美里は出口へ向かう。「ちょっと待ちなさいよ!」と百合子は追いかけるが、「じゃあ、頑張ってね」という元気な声を残して、美里は出て行ってしまった。
今度こそたった一人で残されてしまった百合子は、広いVIPルームの中をウロウロと歩き回った。フロアに目を転じると、確かにさっきの鼻ピー男が自分に向かって手を振っている。ため息をつき、椅子に座ってグラスを手に取るが、もうカクテルも残っていない。舌打ちをして部屋の奥にあるインターフォンをつかむと、係の男に言い放った。
「VIPルームだけど、バーボン、ロック、ダブルで……あ、いや、ボトルごと持ってきて!」
インターフォンを切ると、改めてダンスフロアを見下ろした。
そこでは、若い男たちがその有り余るエネルギーをもてあます様に身体を動かしている。そこにいる全ての男が、「俺を選んでくれ」と自分に向かって叫んでいる様に、百合子には思えた。
「こうなったら、かたっぱしから食ってやろうかしら」
まるで自分の王国を見下ろす女王の様に、百合子はVIPルームの中央に仁王立ちになり、「はーい!」と手を振った。
おわり。
(原稿用紙換算五十四頁)