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小説『ホームレス』最終回
段ボールハウスに火をつけたのは春江だった。二人が食料調達に出かけたのを見届けた春江は、持ってきた灯油を撒き、段ボールハウスに火をつけたのだ。その様子を見ていた別のホームレスが管理人を呼び、春江はすぐに捕まった。すぐに逃げれば逃げられた筈なのに、春江は火が燃えひろがるのをしばらく見ていたのだ。管理人はすぐに警察を呼び、春江は駆けつけた警官に引き渡された。後に伝え聞いた話によれば、「この段ボールハウスがなくなれば、西園寺はこの公園を出て、自分の所に来るに違いない」と春江は考えた様だ。
「まるで八百屋お七みたいだな」とその話を聞いたオッサンは言った。「何ですかそれ?」と西園寺が聞くので、「何だ知らないのか」と説明を始めようとしたが、ふと考えて言葉を飲み込むと「要するに女に惚れられるってのは怖いって事だよ」と呟いた。
その事件以来、オッサンの口数は減った。元々あまり喋るほうではなかったが、さらにそれが酷くなり、必要最低限の事しか口にしなくなった。長い間なじみだった段ボールハウスが燃えてしまったのが、よほどショックだったのだと思った西園寺は、すぐに段ボールハウスの再建を始めた。ボヤのあった日から、警察が事件現場として立ち入り禁止のテープを張り、元の場所には入れなくなっていたが、すぐ隣の場所をすでに確保していた。段ボールハウスの再建は、西園寺ひとりで行った。オッサンは、最近体調が悪いらしく、いつもゴホゴホと咳き込むようになっていた。ハウスを失った後の数日間、寒空の下、毛布に包まっただけで夜をすごしたのが原因のようだ。西園寺は、雨風がしのげる地下道に少しの間避難しようと誘ったが、俺はあそこの連中とそりが合わないんだ、と一人公園に残った。西園寺は二日ほど地下道で過ごしたが、そこで調達した段ボールハウスを元に、公園のハウスを再建し、二人は再び並んで眠るようになった。
後で聞いた話だが、事件を起こした春江はすぐに両親が引き取りに来たので、両親が身元引受人となるという約束で、釈放された。両親は春江が一人で住んでいたアパートを解約し、ボランティアの活動からも手を引かせ、実家へ連れ戻った。春江自身も、憑き物が落ちたように、西園寺のことを二度と口にしなかった。西園寺は彼女に対する罪悪感を覚えたが、それ以上に安堵した。
ボヤの際にオッサンが必死になって守ろうとした耐火金庫のことが気になったが、それについて問い質すことはしなかった。誰にでも秘密はある。それを他人に詮索されるのがどれだけ苦痛か、西園寺自身も良く分かっていた。
新しい段ボールハウスで最初の夜を過ごした翌朝、オッサンはまだ眠っている西園寺を起こさないようにそっとハウスを出た。手には耐火金庫を持っていた。
まだ人気のない公園のベンチに座って、耐火金庫をひざの上に置いた。オッサンは、慎重な手つきでナンバー式の金庫の鍵を開いた。中には封筒と数枚の写真、そして腕時計が入っていた。写真を手にとって、じっと見つめた。涙がこぼれそうになり、空を見上げた。空は明るくなっていたが、まだ太陽は姿を見せていなかった。
再び夏が来た。暑い夏だった。夏が暑いのはいつもの事だが、その年は特別に感じられて。セミの声が公園を、段ボールハウスを、街全体を覆っていた。サラリーマンは汗を拭きながら、何も言わずうつむき加減に公園の中を歩いてゆく。ベンチに座って涼む人は少なかった。少しでも早く地下に入って冷房の恩恵に預かりたい、そう思いながら歩いているようだ。
西園寺は、そんなサラリーマンの脇を警戒な足どりで歩いていた。彼のホームレス生活も二年目に入っていた。ジーパンにポロシャツ、足にはビーチサンダル。そんな格好の西園寺を見て、ホームレスだと思う人はいなかった。学生かフリーターか、でなければ有給休暇を取ってデートに出かける会社員か。いずれにせよ、デイバッグを肩にかけ、足どりも軽く公園を歩く西園寺の姿は、暑さにヘトヘトになっているサラリーマンよりも幸せそうに見えたかもしれない。
低い柵を軽く飛び越えてお馴染みの段ボールハウスの敷地に足を踏み入れると、「ただいま」とハウスの中へ顔を突っ込んだ。オッサンは物憂げな顔で、「おう、どうだった?」と聞いたが、すぐにゴホゴホと咳き込み、ギュッと目を閉じて大きくため息をつく。
「イマイチですね。この陽気だから生ものはみんな腐っちまってるし、又、お仲間が増えたみたいで、どこのごみ捨て場も争奪戦ですよ」
「だろうな。相変わらず、景気悪いもんな。日本の政府は本当にダメだよなあ」
声に元気はなかったが、悪態は相変わらずだった。
「あ、でも、文庫本が沢山捨ててあったから、明日にでも売りにいきますよ。それから、これ、手に入れました」とテレビコマーシャルでも有名な高価な栄養ドリンクを差し出した。
「懐かしいな。昔はこれを飲んであちこち走り回っていたもんだ」
西園寺に差し出されたビンを受け取り、グイッと飲み干すと、重いからだをお越してようやく段ポールハウスから出てきた。
「あ、寝てればいいのに。飯の支度、しますから」
「なに大丈夫さ、あんまり寝ていると、このまま寝たきり老人になっちまいそうだ」
オッサンはもう何ヶ月も段ボールハウスの中の「ベッド」に寝たきりだった。
「おにぎりとカップラーメンがあるんで、ラーメンライスでいいすか?」と一応献立のお伺いを立てるが、返事も聞かずに作業を始めた。
「この暑いのにラーメンライスかよ」
「残念ながら、冷し中華の残飯は落ちてなかったです」
などと軽口を叩きながら、てきぱきと料理を続ける。料理と言ってもお湯を沸かしてカップラーメンに入れるだけだ。オッサンは、ううっと呻きながら身体を伸ばす。ボキボトと背骨が音を立てた。続いてゴホゴホと咳き込み始める。
「大丈夫ですか。後で背中さすってあげますよ」
「大丈夫だよ」
なんでもないという風に手をふりながら公園全体がよく見える場所に折り畳み椅子を運び、どかりと座る。ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出し、ライターで火をつけようとするが、もうガスがないようだ。西園寺がマッチを取り出し差し出すと、眩しそうな顔をしながら火をもらった。
「しかし、お前もすっかりここの生活が板についちまったな……」
「オッサンのお蔭ですよ」
「ここに来た時は残飯なんか食べられませんとか言ってたのにな」
「その残飯って言い方やめましょうよ」
「じゃあ、なんだよ?」
「考えたんですけどね。『食のリサイクル』って言うのがいいと思うですよね」
「リサイクルだと? 何でも横文字にしやがって」
「言葉の響きがいいでしょ? なんか社会に貢献しているみたいで」
「俺たちは生きているだけで社会に貢献しているさ」
「えっ?」
「さっきも若いサラリーマンがさ、そこで寝てた俺のことをチラリと見て、ああは成りたくねえな、だってさ。ここに座っているだけで、あいつらのちっぽけな自尊心を満たしてやっているって事さ」
「あいつら、何も分かってないんですよ」
それまで明るい表情で軽口を叩いていた西園寺が、神妙な表情になった。
「俺たちは、どうせ使い捨てなんですから」
オッサンは西園寺の横顔を見ながら、ぼりぼりと無精髭を掻いた。体調を崩していらい、蕁麻疹なのか皮膚病なのか、頬の辺りがかさかさとして、痒くて仕方ない。掻くと皮膚の表面が白い粉となって地面に落ちる。
「俺たちって……お前とあいつらじゃ違うだろ」
「えっ?」
もうその話題は終わったと思っていたので、一瞬、オッサンが何を言っているのか分からなかった。
「あいつらは少なくともホームレスじゃない」
「まあ、今はぞうでずけど。それも何時どうなるか分かりませんよ。はい、出来ましたよ」
西園寺は出来上がったラーメンライスをテーブル代わりに使っている段ボール箱の上においた。オッサンは黙ったままボリボリと頬を掻いている。
「じゃあ、まず俺から」
西園寺は使い古しの割り箸を日用品入れになっている煎餅が入っていた罐から取り出すと、「いただきます」と軽く手を合わせ、食べ始めた。一口二口とラーメンをすすって、ライスをずるすると口に入れた後、「はい、お次どうぞ」とオッサンの前に器を差し出す。一つのラーメンライスを二人で交互に食べるという段取りだ。よっぽど良い出物がない限り、二人はそんな風に一つの食事を交互に食べていた。
「スープはインスタントですけど、麺は大通りの一本裏の路地に出来た味噌ラーメン専門店の奴ですから、結構いけてますよ。あそこ、開店以来ずっと行列が出来てて、一度食べてみたいと思ってたんですけど……工場から麺を運んで来る車が来て、店主と話している隙に一束かっさらって来たですよ」
オッサンは目を伏せたまま、何も言わない。
「どうしたんですか。食べないんですか?」
「あいつらはまだ逃げずに頑張ってる……お前とは違うよ」
オッサンはまだ先程のサラリーマンの話題にこだわっていた。それに気づいた西園寺は、半笑いの顔のままて、オッサンの顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか? 何かおかしいっすよ」
「……そうやって、ずっと逃げるつもりか?」
オッサンはゆっくりと顔を上げ、西園寺の目を見た。どきりとした。毎日一緒に暮らして色々な話をするが、相手の目をじっと見て話をすることは殆どなかった。ちらちらと相手の顔の辺りに視線を動かしながら、少しうつむき加減に話すだけだ。オッサンの目をそんなにまともに見るのは、西園寺が初めてこの段ボールハウスに現れた時以来だった。
「学校から逃げ、家から逃げ、会社から逃げて……今の自分からも逃げようとしている」
オッサンは言葉を続けた。
「……オッサン、お、俺に説教しようって言うのかよ」
西園寺を声を震わせながら反論した。
「オッサンだって、ホームレスじゃないか」
「俺とお前は全然違う」
「何が違うんだよ。一緒に段ボールハウスに住んで……同じホームレスじゃねえか」
「俺には栄光の日々があった」
「はあ?」
「自分の会社を起こして社長にもなった。それなりに贅沢もした。年も年だし、人生、後半戦だ。お前はまだ前半戦だろ」
オッサンがその話題から自分の自慢話へつなげようとしていると感じた西園寺は、苦笑まじりのため息をわざとついた。そして今までの彼であれば、けっして
「分かってねえな」
「うん?」
「オッサンが若いころは高度成長期でさ、仕事も沢山あってさ、オッサンが会社を起こした頃は、それこそバブルの絶頂でさ、何をやっても上手く行ってさ……けど、俺が学校を出た時は就職氷河期とか言ってさ、仕事なんて何にもなくてさ……俺の友達だって、結構頭良い奴でも皆、正社員なんかになれなかったし……それで派遣で働いてさ……それもすぐにクビになってさ……もう一度正社員に挑戦しようとしても、新卒しか取らないって言うしさ……どうすりゃいいんだよ」
西園寺は今まで溜まっていた思いを、一気に吐き出した。
「まあ、お前のいいたい事も分からんでもない……」
「分かるわけないだろ? あんたたちの世代はさ、良い時代に生まれたんだよ……戦争もなくて、平和な日本で、景気も良くて……あんたが社長になったんだって、あんたの能力なんかじゃないんだよ。時代が良かっただけ! 俺だってその頃に生まれていたら……こんな風になってねえよ」
西園寺の顔をは半べそになっていた。オッサンと暮らしながら、ずっと心に秘めていた思いなのだ。決して今のホームレスという状況に満足しているわけではない。でも、どうしたらいいのか分からなかった。ここから脱出するべきなのか。脱出出来るのか。出来たとして、その先に何が出来るのか。
オッサンとの暮らしは思ったほど悪くはなかった。その皮肉まじりの話も面白かった。バブルの頃に経験したという、今の西園寺からすれば驚くべき体験の数々も、羨ましいと思う以前に、興味深かった。
「まあ、そうかもしれねえな。お前さんは、この先もずっと自慢する様な経験をする事もなく、ずっとこの段ボールハウスで暮らすって訳だ」
オッサンはまたボリボリと頬を掻きながら、段ボールハウスの中へ戻った。
「……食わないのかよ」
「このくそ暑いのに、ラーメンライスなんか食えるかよ」
そう悪態をつくと、ベッドの上に横になった。
「あ~あ、あの頃は良かったなあ。あちこちに若い愛人作ってさあ、しかも娘くらいの若いピチピチした女でさあ……そいつらと一緒にグアムとかフィジーとか行ったよなあ。泊まる所もさ、一番豪華なホテルの最上階。オーシャンビューだよ。分かるか、オーシャンビューって。窓から海が見えるんだよ。真っ青な海が。どこに行ったって日本人だってだけで、皆にこにこしちゃってさあ……」
「またバブルの自慢話かよ。聞き飽きたんだよ」
「お前にはねえのかよ? そういう自慢話」
「うるせえ」
不機嫌そうに話を断ち切ると、西園寺は、オッサンが食べ残したラーメンライスを再び食べ始めた。オッサンはしばらくその後ろ姿を見ていたが、ふんと鼻で笑うと段ボールハウスの奥からリュックサックを引っ張りだし、何やらゴソゴソと探し始めた。しばらくすると何やらもぐもぐと食べている気配と、不思議な匂いが漂って来た。
「何、食ってるんだよ」
「ブルーチーズ」
「何だそれ?」
「お前はどうせ食ったことねえだろうな。俺はこのブルーチーズとロマネ・コンティが好きでなあ……」
「美味いのかよ、それ」
「お前にはやらないよ。ラーメンライス食ってろよ」
「いるかよ、そんなもん」
西園寺は、わざと音を立ててラーメンライスの残りを食べ続けた。ブルーチーズをひとしきり堪能したオッサンは、残りを定年にラップに包んでリュックサックに戻した。ついでに奥の方に隠してあった巾着袋を取り出して中を覗くと、オッサンの顔色が変わった。
「あ……ない」
「うん」
怪訝そうな顔で見ると、オッサンはリュックサックに手をつっこんで、何やら必死に探している。
「なに、どうしたの?」
「お、俺のロレックスがない」
「ロレックス?」
「この中に入れておいたのに……ないんだ」
オッサンは巾着袋の中をぶちまけた。中から様々な写真、古い名刺や社員証、折り目のついた写真、何だか分からないクスリなどが飛び出した。続けてリュックを逆さまにして、中身を全て足元にぶちまける。フィルム式のカメラ、バーバリーのマフラーと皮手袋、カフスボタンとネクタイピンのセット、レイバンのサングラス、古いジャズのCD、そんなもんがバラバラとこぼれ落ちた。
「……お前だな」
「えっ?」
「お前が盗ったんだろ?」
「何言ってんだよ」
「お前以外、考えられない」
「どこに証拠があるんだよ」
「このぼろバッグにロレックスが入ってなんて、お前以外の誰に分かるって言うんだよ」
狂気にも似た光を帯びたオッサンの目。それを見ていると、西園寺はなんと答えたら良いか分からなかった。
「返せよ。えっ? 返せって言うんだよ!」
「冗談じゃねえよ。知るかよ、そんなもん」
「そのバッグの中だな」
「えっ?」
オッサンは、段ボールハウスの外に立てかけてあった西園寺のデイバッグに手をかけた。
「何すんだよ」
「中をみせろ」
「やめろよ」
「見せろって!」
オッサンは強引に奪い取って口を開くと、中に手を突っ込んだ。
「いい加減にしよろ」
オッサンの豹変振りに半ば呆れていた西園寺は、それでも相手を少し落ち着かせようとして、そっと肩に手をおいた。オッサンはその手を乱暴に振り払った。そして、デイバッグの中から取り出した手を西園寺の前にグイッと突き出した。
「何だよ、これは」
その手にはロレックスが握られていた。
「この泥棒め……」
オッサンはロレックスを奪い返すとデイバッグを西園寺の顔めがけて投げつけた。
「え、あ、いや、知らないよ。知らないって」
「……出て行け」
オッサンは、背中を向けたまま静かにしかし重々しい声で言った。
「俺はホームレスだがな……泥棒と一緒には暮らしていけねえんだよ」
西園寺はオッサンの言葉に衝撃を受けながら、何も言い返すことも出来ずに、ただその背中を見ていた。
「出て行け!」
その声には悲痛なものが混じっていた。西園寺は、オッサンの本気を知った。地面に落ちたデイバッグを拾うと、必要最低限の持ち物を乱暴に突っ込み、何も言わずに立ち去った。
オッサンはゴホゴホと咳き込みながらロレックスの文字盤を見た。その針はまだ動いていた。ポケットに突っ込むと、西園寺が残して行ったラーメンライスの前に座って、食べ始めた。もう余り残っていなかった。
「あの野郎、こんなに食っちまいやがって……」
ぶつぶつと文句を良いながら、残り汁まですっかりと平らげてしまった。
西園寺が公園に戻って来たのはそれから一週間後だった。
その間、他の公園を転々と渡り歩いた。オッサンとの生活で身につけたノウハウを使って食料を調達し、食べるのに困ることはなかった。問題なのは話し相手がいないという事だった。どの公園にもホームレスはいる。その気になれば彼らと話すことも出来る。実際、一言二言話してみた事もある。しかし多くのホームレスは怯えた顔で西園寺の真意をうかがうだけで、長続きはしなかった。
一週間して、もとの公園に戻ってみた。離れた場所からオッサンの様子でも見て、それで立ち去るつもりだった。公園に入り、オッサンの段ボールハウスが見える辺りまで行って、西園寺を呆然と立ち尽くした。そこに段ボールハウスはなかった。
管理人の所へ行き、オッサンの行方を聞くと、三日ほど前に肺炎をこじらせて死んだと言われた。
管理人は西園寺が同居していた若い男だと分かると、オッサンから預かっていたという手紙を差し出した。その日の夕方、帰宅しようとして段ボールハウスの前を通りかかると、人のうめき声が聞こえる。中を覗いてみると、オッサンは真っ青な顔をして苦しんでいた。急いで救急車を読んで、救急隊員がオッサンをストレッチャーに乗せた時、オッサンは、シャツの胸ポケットからくしゃくしゃになった封筒を差し出し、これを渡すように頼まれた。一体、誰に渡せばいいのか、オッサンはその時言わなかった。管理人はしかし、それがついこの間まだ一緒に住んでいた若い男だという事を察した。他の家族も友人もいない。ホームレス仲間と言えるような交流のある相手もは、西園寺以外にいる筈もなかった。
西園寺は公園のベンチに座って、早速、分厚い封筒の封を切った。中から手紙と共に一万円札を輪ゴムで止めた束が出てきた。札束を一度封筒に戻し、手紙を読み始めた。
「あんたがこの手紙を読んでいるとしたら、俺はもうこの世にいないって事だろう。俺は自分の命がもう長くない事は、何となく分かっていた。だから最期にあんたに手紙を書くことにした……」
オッサンの字はその容貌や言動から察するより、はるかにしっかりとした、几帳面な感じの字だった。
「……あの雨の日、お前が段ボールハウスに現れて、俺は内心嬉しかった……何だかんだ言っても、段ボールハウスの中で一人で生きて行くのはつらい。寒いのも暑いのもつらいが、一番身に沁みるのは、孤独だ。下らない自慢話でも、する相手がいるっていうのは良いもんだ。実際、あんたは俺のいい話し相手になってくれた……ここ数カ月、あんたと一緒にごみ箱をあさったり、レストランの食べ残しを強奪したり、拾った本を売りに行ったり……一人でやると惨めな事でも、二人でやると何となく楽しく感じたりして……人間ってのは不思議なもんだとつくづく思う……しかし、いつまでもこんな事をしていちゃいけない。それもよく分かっていた。だから、俺はあんたを追い出す事にした」
西園寺はあの日、ロレックスがなくなったと騒ぎだしたたオッサンの姿を思い出した。やはりあれはオッサンが仕組んだ事だったのだ。
「……ここに五十万ある。俺の息子のために取っておいた金だ。そう、実は俺には息子がいる。離婚して妻が引き取って以来、何年も会っていない。年はあんたと同じくらいだ。本当は息子の学費にと思っていた金だが、居場所も分からない。あんたがもらってくれ」
西園寺は、輪ゴムを外し札束を数えた。確かに五十万円ある。数えた後、再び輪ゴムで束ねると、手紙の続きを読んだ。
「……あんたは自分が生まれた時代を嘆いていた。もっといい時代に生まれていたら、自分はホームレスなんかにならなかった。そうかも知れない。俺が社長になれたのは生まれた時代が良かっただけだとも言った。それもそうかも知れない。しかし、これだけは言える。人が時代を変える事は出来ない。帰られるのは自分の生き方だけだ。この金を元にあんたがここから抜け出してくれるのを願っている。それが俺の最期の望みだ……」
手紙を読み終える前から、西園寺の目からは涙があふれだして止まらなかった。袖口で涙を拭いながら、最期の数行を読んだ。
「最期に一つだけ言っておくが、あのロレックスはニセモノだ。本物はとっくに売っちまった。だからあちこちで自慢したりするなよ。本物はお前が稼いで、自分の金で買うんだな」
西園寺は思わず笑った。笑いながら泣き続けた。涙が次から次にあふれて止まらなかった。そして笑いも止まらなかった。
その後、オッサンが残したあの金を元に、彼はアパートを借りた。安いスーツを買い。就職雑誌を読みあさった。あちこちに願書を送り、殆どが書類審査で落とされた。何件も面接を受け、何件も落とされた。けれどやっと一社、最終面接まで進んだ。そして、その面接開場に向かう前に、西園寺はかつて段ボールハウスがあったあの場所に立っていた。
「オッサン……俺、これから最終面接を受けにいくよ。きっと合格して、就職する。給料が出たら、それを貯めて、それでオッサンの息子を探し出して、オッサンからもらった五十万円、きっと息子さんに返すから……それまで貸しておいてくれよな」
西園寺は心の中でオッサンに語りかけた。
公園は昼休みの時間で、相変わらず若いサラリーマンやOLたちが、食事をしたり電話をしたり無駄話をしたりしていた。風が木々を揺らす音が、優しく彼らの声を包んでいた。
もうすぐ昼休みも終わり、午後の就業時間が始まる。オフィスに戻るサラリーマン達と一緒に、西園寺は面接開場に向かった。その腕に、あのニセモノのロレックスが光り輝いていた。
おわり。