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小説『結婚3分前』前篇
佐藤百合子はウェディングドレスを着たまま泣いていた。
ドレッサーの上に置かれたティッシュボックスの中身は見る見るうちに減っていき、彼女が涙を拭き鼻水をかんだティッシュの残骸は、新婦控室の床の上に転々と散らばっている。それはまるで、結婚式の最後に花嫁と花婿に向かって参列者が投げる祝福の花びらの様にも見えた。
コンコンとドアを叩く音がすると、「来ないで!」と叫んで更に大きな鳴き声を上げる。
「百合子? あたしよ、美里!」
聞き覚えのある声がして、百合子の顔がパッと輝き、「美里? ちょっと待ってて……」と入り口の方へ歩きだしたが、すぐにその足を止めた。
「嘘よ! 美里の筈がないわ。今日は子供の運動会で来られないって、そう言ってたもん!」
「運動会中止になったのよ。だから慌てて来たの。ほら早く開けて!」
やはりそれは聞き覚えのある美里の声だ。百合子は恐る恐る入り口に近づき、ロックを外してドアを細めに開いた。するとドアの向こうで懐かしい美里の顔がやさしげに微笑んでいた。
「早く入って……」
美里の腕をつかんで中に引き入れると、百合子はすぐにドアを閉め、再びロックした。ドアに耳を当て、誰も近寄って来ないのを確認して、やっと美里と向き合った。
「美里……」
「百合子……」
美里が両手を広げる。百合子も両手を広げる。二人は互いに相手に飛びつき、抱き合って飛び回った。一瞬で二人は高校時代の親友に戻っていた。
あの頃も何度もこうやって二人は抱き合って互いの体温を感じ、どんなに嫌な事があっても、例えば親と上手く行かなかったり、彼氏と別れたりして、自分が世界に必要とさていないと感じた時にも、この人だけは私を温かく受け入れてくれる、そんな風に思ったものだ。つまり、二人は親友だったのだ。
「やっぱり来てくれたのね……良かった」
「小学校からの親友のあんたの結婚式だからね……何とかして来たかったんだけど……昨日、息子の学校でインフルエンザになった子がいてさ、感染の恐れがあるからって運動会中止になったのよ。だから子供を向こうのお母さんに預けて、慌てて新幹線に飛び乗って……けど、来たら何なのこの騒ぎは?」
美里は上着を脱ぎながら一気にそこまで喋った。
「騒ぎになってる?」
「当たり前じゃない。式場に着いたら何か変な雰囲気で、係の人に聞いたら、口ごもってはっきり言わないし、そしたらあんたん所のお母さんに呼び止められてさ……控室に行って、あんたを説得してくれって言うから……一体、どうしたの? 控室に閉じこもったきり、時間になっても全然出て来ないって……皆、心配してるわよ」
また母親が余計なお節介を焼いて、とうんざりした気分にもなったが、結果的に美里が来てくれた事は、百合子にとって救いだった。美里以外の誰にも、今の自分の気持ちを打ち明ける気にはならなかった。
「……あたし、結婚やめようと思って」
百合子はここ何日間もずっと頭の中から離れず、しかし口に出して言う事ができなかった言葉をついに吐き出した。吐き出しただけで、随分と気分は軽くなった。しかし、その言葉を受け取った美里の気分は、一瞬にしてずんと重くなった。
「何言ってんのよ。あんた。冗談でしょ?」
「本気よ」
「ここまで来てなんで? 何かあったの? 相手の人、何て言ったっけ? 祐介さんだっけ、喧嘩でもしたの?」
「別に……」
「じゃあ向こうのご両親か親戚になんか言われたとか?」
「そんなんじゃないわよ」
「まさか……他に女がいたとか?」
その部屋には二人しかいないにも関わらず、美里は急に辺りを気にしながらひそひそ声になった。
「そんな事あるわけないじゃない、あんな男に」
「あんな男って……あんた、前に電話してきた時は、やっと理想の結婚相手を見つけたって……そう自慢げに話していたじゃない」
その電話の事は良く覚えていた。百合子の浮かれた声はちょうど家事で忙しかった美里を苛立たせた。しかし今の百合子の声は見る影もなく暗い。
「理想とはほど遠いわ」
「でも、身長百八十センチ以上で、年収一千万以上で、東京に家があって、次男で、顔もまあまあで……全て条件はそろっているって……」
「嘘だったのよ、全て……」
「全て?」
まさか結婚詐欺か? 美里はようやく百合子の悩みを真剣に捉えようと思い始めた。しかし続いて出てきた言葉は美里の想像とはまるで違った。
「あの人……一七五センチしかなかったのよ。お見合いの時シークレットブーツ履いていたの」
「何、それ?」
美里は絶句した。
百合子の身長は一六五センチあった。ハイヒールを履くと一七〇センチを超える。百合子曰く、相手の男性とは十センチの身長差がないと、キスをする時に絵にならないそうだ。別に絵にならなくたっていいじゃないかと美里は思うのだが、キスをする時は女が相手を見上げて、それで少し背伸びをしてハイヒールの踵が地面から数センチ持ち上がる、というのが理想の形なのだそうだ。多分どこかで見た映画かテレビドラマの影響だと思うのだが、百合子は事ある事に自分の理想とするキスシーンを美里に話していた。
「何よ、それが理由? いいじゃない。五センチくらいサバを読んだって……」
「それだけじゃないわよ。年収だって……」
「えっ、一千万じゃなかったの?」
「そうなのよ」
この問題には美里も真剣に反応した。結婚生活にとって男の収入はやはり重大な要素だった。「愛があれば金がなくても……」というのは昔の人の言いぐさだが、実際は昔も今も、「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉の方が真理である。
実際、美里の母親は昔、「お父さんと一緒に貧乏を乗り切ったのよ」などと自慢気に語っていたが、そのお父さんがリストラされて収入を失った途端、真剣に離婚を考え始めた。まだ実行に移していないのは、自分で金を稼ぐ能力がないからに過ぎない。だから百合子の旦那となる男が年収を一千万以上だと嘘を言っていたとすれば、それは真剣に追求する問題だと思った。しかし、続く百合子の言葉に美里は再び絶句する事になる。
「……去年の年収を調べたら九八〇万だったのよ。ひどいでしょ?」
「い、いいじゃない、二十万くらい……」
「二十万は大きいわよ!」
「ま、確かに小さいとは言わないけど……」
美里は百合子の言葉にいちいち反応するのがバカバカしくなって、壁際にある二人がけのソファにため息と共に座り込んだ。百合子がすり寄るように追いかけて来る。
「それに今年はボーナスもカットされて、九〇〇万を切るかもって……」
「でも、うちの旦那と比べたら、倍近く稼いでいるわよ」
「あんたん所と比べないでよ」
百合子は昔から美里に対して遠慮がなかった。
容姿にしてもファッションセンスにしても常に自分の方が上だと確信していたので、例えば通りかかったショウウインドウの前で「あ、この服素敵ね」などと美里が言っても、一瞥して「あんたには似合わないわよ」と毒のある言葉を言ったりする。美里も次第にそれに慣れてしまい、何を言われても本気で怒るという事はあまりなかった。学校のテストの成績などはいつも美里の方が上であったが、難しい数式が理解できても、資本主義と社会主義の違いを説明できても、そんな事は女としては何の価値もないと信じ込んでいる百合子にとって、美里はセンスのないつまらない女であり、そんな彼女が自分の様な女を親友に出来た事が、彼女の人生最大の幸運だと思っていた。
「でも、東京に実家があるんでしょ? 田園調布だって言ってなかった」
美里は何とか百合子の結婚のプラスポイントを探そうとした。
「それも違ったのよ。田園調布じゃなくて調布。ただの調布だったのよ。周りに田園はあるみたいだけどね」
美里には、調布も田園調布も何が違うのかさっぱり分からない。
「私の中では、環八の外は『東京』と呼ばないのよ」
「かんぱち? なにそれ? 寿司の話?」
「ああ、もう! だから田舎モンは嫌なのよ」
百合子はかみ合わない会話にイライラしていた。普段、自分が付き合っているブティックの店員や仕事仲間であれば、百合子の言わんとする事は誰もが頷くはずだった。実際、東京に住む百合子の友人たちは、皆、環八の内側どころか山手通りの内側に住んでいた。
「……あんただって田舎モンじゃない。同じ村に生まれて、同じ分校に通っていたじゃない」珍しく美里は引き下がらなかった。
「村とか分校とか言わないでくれる? 人が聞いたらすごい田舎に聞こえるじゃない」
「だって田舎だよ。うちの村が市に昇格したのは、あたしらが成人式を上げてからよ。分校は去年、廃止されちゃったけどね。そう言えば分校のお別れパーティーの時、あんた来なかったけどさあ、学校の隣に立っていた鶏小屋が壊れちゃってさ……」
「ああ、もう、そんな話はどうでもいいのよ! とにかく私は、この結婚が間違っているという事に気づいたのよ!」
百合子は立ち上がるとイライラと室内を歩きだした。
「でも、もう親族一同集まっているし、式場の人も次の予定が詰まっているから、困ってるって……」
そんな事は百合子にも分かっている。しかし、結婚は一生に一度の大事業だ。自分の人生を決定する大きな決断なのだ。そう簡単に結論は出せない。今がこの結婚を再考する最後のチャンスなのだ。親戚や結婚式場の都合なんて考えている場合ではないのだ。
「あたしは……あなたみたいに妥協して結婚したくないのよ!」
百合子は今まで美里に絶対に口にしなかった言葉を言ってしまった。言ってしまった途端に後悔したが、一度口から出てしまった言葉は、元に戻す事は出来ない。当然、美里は傷ついた顔をした。しかしそれに気づいてもすぐに謝る事ができるような百合子ではなかった。
「……何よそれ? あたしは別に妥協なんかしてないわよ」美里の口調はそれまでと違った。
「嘘ばっか」
「嘘じゃないわよ。そりゃ、あの人が理想の相手だったとは言わないけど」
「そうでしょ? あたしたち約束したよね。高校の卒業式の後……誰もいなくなった演劇部の部室で……ほら来て」
百合子は美里の腕をつかみ、部屋の片隅にある姿見の前に強引に連れていった。
「二人で鏡の前に立って誓ったじゃない。覚えているでしょ?」
「何を?」
「だから……」百合子は、まるで男が女の肩を掴む様に美里の肩を掴んだ。
美里の身長は百合子よりも五センチほど低かったが、体重はかなり上で、要するにふっくらとした体系をしていた。出産した後の数年は子供を両手に抱えて、家事をこなす日々が続き、ただでさえ太い両腕にさらに筋肉がついた。その美里をよろめかせる様な勢いで、百合子は彼女を引き寄せ、鏡の中に映る自分たちの姿を強制的に見せ、そして言った。
「……あたしたちはいい女だ。絶世の美女とは言わないが、そこそこいい女だ。だから、これから先、決して自分を安く売らない! ダサイ男とは決して付き合わない! 駄目な男には絶対に身体を許さない! 結婚相手に関しては絶対に妥協しない!」
まるで政治家が選挙運動でもするような口調で、拳を振り上げ、鏡に映る二人の姿に向かって百合子は熱弁をふるった。美里はいたたまれなくなり、何度も鏡の前から逃げようとしたが、その度に意外なほど強い力で引き戻された。
「忘れたとは言わせないわよ」と百合子が言う。
「いや、忘れたとは言わないけどさ……出来れば忘れたい過去だわ」
「なんでよ?」
「だって……あん時はさ、あんたが一年の時から好きだった卓球部の吉村君の第二ボタンを貰いに行ったら、もう他の人にあげちゃったって言われて、ショックを受けて……あたしもう自殺するって泣きだして……それを慰めるために仕方なく付き合っただけで……」
「でもね、あたしはあの時、二人で叫んだ言葉で目が覚めたのよ……そもそも卓球部の吉村を狙いに行ったのが間違いだったのよ。やっぱりサッカー部の武田にしておけば良かったのよ」
「でもサッカー部の武田君は中学の時から注目の的で、ハードルが高いから私はもっと目立たないのを狙うって……」
「だから、それが間違いだったって言うのよ。そう思って三年間、吉村のために尽くして来たのに……」
「尽くしたって……大げさな」
「大げさじゃないわよ。大会の時にはお弁当作って持って行ってあげたし、誕生日には手編みのマフラーをプレゼントしたし、学園祭の時だって一緒に焼きそばを作ってあげたのに……ひどい……ひどいわよ!」
百合子の目には涙が浮かんでいた。
卒業式の時に吉村君の第二ボタンを手に入れられなかった事は、今更ながら悔しくて納得の行かない出来事のようであった。百合子の涙はしかし、美里の感情を揺り動かしはしなかった。むしろ、そんな他愛のない事でよく泣けるもんだと、同性ながら呆れていた。
「あのね……この際だからはっきり言っておくけど、お弁当もマフラーも作ったのは私……」
「えっ?」
「あんた自分じゃ出来ないからって私に泣きついたでしょ? 学園祭の焼きそばだって、あんたは出来上がった焼きそばの上に紅ショウガを乗っけていただけじゃない。とても一緒に作ったとは言えないわね」
美里は少し意地悪をしてやろうと思い、今まで百合子が傷つくと思って言わないでおいた事実を告げることにした。
「ちなみに彼の第二ボタンをゲットしたのは、三組の華ちゃんよ」
「え~っ、何であんな女に?」
案の定、百合子は信じられないという顔で美里を見た。
三組の華ちゃんは、地元の農家の子で、毎日実家の農作業を手伝わされているせいか、顔全体が浅黒く日に焼けていて、化粧っ気もなく、休みの日にも例えば学校指定のジャージの上下の様な、年頃の女の子とは思えない地味な格好で買い物に出かけてしまう子だった。当然、男の子に人気がある筈もなく、百合子のボーイフレンドから、その愛の証である制服の第二ボタンを横取りできる様な存在にはとても思えなかった。
「二人は卒業後すぐに結婚して、地元で農業をやっているわ。もうすぐ子供も生まれるみたい……同窓会で会った時には、とても幸せそうだったわよ」
二人の、その後の幸せな生活を伝える事で百合子をさらに追い詰めようとしたのだが、これは逆効果だった。都会派の百合子としては、農業を継いだというだけで負け組なのだ。
「ふ~ん。あ、そう。地元で農家をやってるんだ。まあ、あの二人ならお似合いよね。二人で土まみれになっていればいいのよ」
「あんた、そうやって人の悪口ばかり言ってると、いつかひどい目にあうわよ」
「何言ってんのよ。あんただって理想は高く持たなくちゃいけないって言ってたじゃない。一緒にDVDを見ながら、やっぱり『プリティ・ウーマン』のリチャード・ギヤよねって……二枚目で、お金持ちで、白いリムジンに乗って迎えに来てくれる……あれが理想よねって……」
「あれから何年たってると思うの? 人は次第に現実という物を知るようになるのよ」
「あたしはそんなの嫌よ。何年経ってもあたしのリチャード・ギアを探すのよ」
百合子は、そう言うとメイク道具の間に立ててあった小さな写真立てを手に取った。そこには新郎の写真ではなく、映画雑誌から切り抜いたリチャード・ギアの顔写真が飾ってあった。これはかなり重傷だと美里は感じた。
「ちょっと百合子、来なさい」
後ろから手を伸ばしてリチャード・ギアの写真を奪い取ると、美里は百合子の肩を掴んで強引にドレッサーの前に座らせた。
「よく見なさい! 一体誰が映っている?」
と鏡の中にいる百合子を指差す。
「……ジュリア・ロバーツ」
「ちがう!」
美里は思いっきり百合子の後頭部を叩いた。当たり所が良かったのか、パンと乾いた音が響きわたる。「いた~い」と頭を抱える百合子の顔をもう一度鏡に向かって正面から向き合わせる。
「あんたは佐藤百合子! 小さな分校しかないような田舎で育った、平凡で、大した取り柄のない、ごく普通の女の子なの!」
美里は鏡の中の百合子に向かって言った。鏡の中で二人の目線が交錯した後、百合子はゆっくりと自分自身に焦点を合わせた。
そこにはいつもの見慣れた自分がいた。式場の係の人に入念にメイクしてもらった化粧は、涙と共にすっかりと流れ落ちてしまい見る影もない。不美人という訳ではないが、皆が息を飲むような美しさでもなく、丸い顔に小さな目、その割には横に広い唇……もう少し顔の幅が狭ければ、もう少し両目が大きければ、もう少し唇が小さければ、もう少し鼻筋が通っていれば……そうすれば理想の顔になれたのに。そんな事を思いながら、子供の頃から何時間も鏡の前で過ごした。だから自分の顔については誰よりも知っている。
「……そんな事、分かってるわよ」
百合子は、手間をかけて結い上げた髪を止めているピンを抜くと、頭を左右に振った。長い髪がほどけて、百合子の顔を覆い隠した。
「でも……だからこそ……いい男を見つけて玉の輿に乗って……何だあいつ、あんないい男どうやって見つけたんだって……そうやって皆を驚かしてやりたいって……あんただってそう言ってたじゃない!」
百合子は涙声になって叫んだ。
確かにそうだ。美里もかつて一緒にそう叫んだ。叫んだだけじゃない。その時は本気でそう思っていた。
世間が女性を値踏みする時、まず顔やスタイルを基準にする。世の中が平等だというのは全くの嘘で、可愛い子はいつも優遇される。物心ついた頃には、それを嫌というほど認識させられる。周囲の大人たちは平等に接しているように思っているが、「あら、可愛いわね。将来は女優さんかな」とか「このお洋服はきっと似合うわ」といった言葉が、自分ではなく別の誰かに向けられているのを知った時、子供ながらに自分の置かれている立場を否応なく知るのだ。
それは学校に通うようになり、子供同士の社会に入るとますます加速して行く。子供は正直で残酷だ。綺麗な女の子のまわりには男の子も女の子も何かと集まって来る。そして例えば皆で何かを食べようとするとき、「何が食べたい?」と聞かれるのも、その集団で一番魅力的な子に限られるのだ。目立たない子は決して自分の食べたい物を聞かれる事もなく、ただ黙々と従うだけなのだ。こういった目に見えない身分制度は、この世に生きている間、永遠に続く様に思われる。
これをひっくり返すには、いくつか方法がある。最も有効なのは、自分が美しく魅力的な女性に変身するという手だ。思春期から大人になるにつれ、女性は大きく変化する。かつて可愛いと言われていた子が何だか平凡な顔になり、あまり目立たなかった子がサナギから蝶の様に変身する事もある。勿論、サナギのまま大人になってしまった人もいる。そういう人には美容整形という究極の手もあるが、これは以前の自分を知っている人、とくに同性からは嫌悪され、「あそこまでやりたくはないわよね」などと陰口を叩かれる危険性がある。
自分自身が美人に変身するには色々とハードルが高い人は、別の方法もある。仕事で世の中に認められる、というやり方だ。企業の管理職になるのも悪くないが、医者、弁護士、作家、芸術家、など組織の一員ではなく個人の名前で世の中に認められ、なおかつそれなりの収入を得る様になると、人々はその人物を尊敬し、決して軽く扱う事がなくなる。外見を基準に作られたヒエラルキーをひっくり返す事が出来るのだ。
この方法の問題点は、「才能」「努力」「運」が必要だという事。そして、その困難を全て乗り越えてある地位を得たとしても、実は欲求不満が残るという事。女の子の多くは仕事の出来る同性というのをそれほど高く評価しないからだ。勿論、尊敬はするし、「凄いねえ」というセリフを口にするかもしれない。しかし、それは「可愛い」とか「綺麗」とかいうセリフが持つ価値にはとうてい及ばないのだ。
自分が綺麗になる事も難しく、能力で他を圧倒する事も難しい人はどうしたらいいのだろう。そういう人たちに残された、最後の一発逆転の道こそ、「いい男をつかまえる」という方法なのだ。
どんな男と付き合っているか、どんな男と結婚したのか、それは女性を値踏みする時のかなり大きな要素となる。そして、「美しさ」は時と共に失われて行くが、「誰と結婚したか」は時とともに重要になっていく。女たちはそれを本能的に知っている。だから、百合子にとって結婚する相手を妥協する事は、自分の人生を妥協する事に等しいのだ。
「なのにあんたはさっさと妥協して……安っぽい男に引っかかっちゃって」
あれだけ一緒に頑張っていい男を見つけようと誓い合った美里は、高校を出た後数年で、見合いで知り合った相手とあっさり結婚してしまった。百合子にはそれが許せなかった。
「百合子……言葉には気をつけなよ」
自分の夫を「安っぽい」と言われて、黙って受け入れる美里でもなかった。
「あたしは妥協なんかしてないわよ」
「へえ、じゃあ、あの男があんたのリチャード・ギアだって言うわけ? あのチビでデブでハゲのメガネが?」
「百合子!」
「何よ、本当の事じゃない!」
「だからってあんた……」
「あんたの結婚式の時、皆、言ってたわよ。何で美里はあんなので手を打っちゃったのって?」
「あんなのって何よ。あの人は……」美里は一瞬口ごもって「いい人よ」と続けた。
「いい人かどうかなんて聞いていないじゃない。いい男かどうかが問題なのよ!」
自分が発している言葉が、世間の良識派と言われる人の神経を逆撫でする事は分かっていた。普段の百合子なら勿論そんなことは言わない。目の前にいるのが自分の唯一無二の親友だから言える事だ。しかし同時に百合子は確信していた。美里だって本当はそう思っていると……。
「……だから、あの時と今の私は違うのよ」
そう反論しながらも美里は百合子が羨ましかった。あの頃と何も変わっていない百合子のまっすぐな気持ちを眩しく思っていた。