小説『娘ふたり』前篇
「あ、真由美、パパはもう寝た? ならいいけど大分飲んでいたみたいだから」
美沙子は携帯電話で娘の真由美と話をしながら、喪服の上着を器用に脱いで部屋の隅のハンガーにかけた。
「それでママは今日、お通夜だからお寺の方に泊まるけど、明日の朝、告別式十時だから八時にパパとタカシ、起こしてあげて……朝御飯は冷蔵庫に作っておいたからレンジでチンしてね……また電話するけど、よろしくね。あなたもお風呂に入って早く寝なさい。はい、ご苦労さま」
電話を切り小さくため息をつくと、改めて室内を見回した。
四畳半ほどの洋間の奥が少し高くなっていて六畳の和室がある。和洋折衷の作りで、洋間の部分には二人がけのソファと小型の冷蔵庫。冷蔵庫の上にはお茶のセット。和室には折り畳み式のテーブルと座椅子が数脚あったが、今は壁際に場所を取らない様に積んであった。
ちょっと見たところ地方のビジネスホテル風のその部屋は、岡村家の菩提寺の敷地内に作られた葬儀場の二階にある一室で、通夜の時に遺族が寝泊まりするために作られたものである。
美沙子は娘への電話が終わって、その夜の懸案事項の一つを解決すると、すぐに次の作業に取りかかった。和室にテーブルと座椅子を設置し、香典返し用の不祝儀の袋の中に入れておいた、その日集まった香典をテーブルの上に広げると、ハンドバッグから電卓とノート、筆記用具を取り出し、テーブルの上に並べて、その前に正座した。
B5サイズのノートは、母が入院してからつけ始めた日記とも闘病記録とも言える物で、病院の担当医がカンファレンスの度に告げた母の白血球や赤血球の数、それまでの経過、その後の治療方針などを書き留めたページと、美沙子の個人的な備忘録や買い物リストなどが混在していた。
ノートは、その半分ほどが既に美沙子の几帳面な字で埋められている。最後のページには「母、永眠」という文字が、他の字よりも少し大きく書かれていて、その脇には年月日と病院の住所が書き込まれていた。
最後のページの後に一枚だけ空白のページを折り込み、まだ何も書き込みのない次のページから、弔問客の名前と持参した香典の額などを整理して書き込むつもりだった。そんなことは葬儀の全てが終わってからゆっくりとやればいいじゃないの、と親戚の叔母たちは言っていたが、どうせ通夜で宿泊するのだし、一人なので話し相手もいないので、時間は十分にあった。それに、その日のことはその日のうちに済ませるというのが、美沙子が日頃心がけていた事で、出来る事を翌日に回すというのは性分にあわないのだ。この性格は父から受け継いだもので、母親はそれとは正反対に、明日で間に合うことは今日無理にやらない、という生活信条を元に一生を過ごした気がする。
香典袋の一つ一つを開封して、そこに書かれている金額と、実際に中に入っているお金の総額を突き合わせる。そして名前、連絡先、金額を一人一人ノートに書き込んでいく。単純だが手間のかかる作業である。しかし今の美沙子には苦痛ではなかった。母の死から今日に至るまでの数日間、いや、母が闘病生活を始めてから今日に至るまでの長い年月の中で初めて、美沙子は一人になれた気がした。
コンコンとドアをノックする音が響いたのは、美沙子が作業を始めてから一時間ほど過ぎた頃だった。時計を見るともう日付が替わろうとしている。こんな時間に一体誰だろう? 訝しげに思いながら「はい」と立ち上がると、遠慮がちにドアが開き、ソバージュ頭にサングラス姿の背の高い女が顔を出した。
「お姉ちゃん?」
「尚美……」
美沙子の顔色が変わった。
「何しに来たのよ、こんな時間に」
「何しにって事ないじゃない」
「もうお通夜終わって、皆、帰っちゃったわよ」
不機嫌な口調でそう言うと、美沙子はもと場所に戻って、作業の続きを始めた。尚美は「はいはい」と肩をすくめ、入り口の三和土からキャスター付の旅行バッグをヨイショと持ち上げた。
「表、もう閉まっていたでしょ?」
「うん。だからここの人に頼んで裏口開けてもらった」
「……相変わらずあんたは非常識な子だね。お母さんのお通夜くらい、ちゃんと時間通りに来なさいよ。普通は前の日に来て手伝うもんよ」
「そう思って連絡したら、来なくていいって電話切っちゃったじゃない」
「だからって本当に来ないなんて……そういう所が、常識がないって言うのよ」
美沙子が一度説教口調になると、止めどなく言葉の攻撃が続く事を長い間の経験で知っていたので、尚美はそれ以上反論をするのはやめて、大人しく応接セットのソファに座った。
「お焼香してきた?」
少し優しい口調で美沙子が聞いた。
「うん」
「顔も見てきた?」
「うん……綺麗だった」
「そうね……」
美沙子も、お棺の中に収まった母の青ざめた顔を思い出していた。よく葬儀の時の故人の顔を見て「まるで生きているよう」と描写する人がいるが、母のそれは生きているというよりは、生気のない美しい人形のようであった。
「でも、随分と痩せたでしょ? 最後の頃、食べられなかったからね」
「最後、どんな風だった? お母さん、苦しんだ?」
妹の質問に美沙子はすぐには答えられなかった。少し間があって「別に……」と答え、「少し前から意識がなかったからね」と付け加えた。
母は苦しんだ。
抗癌剤の副作用で一日何時間も、何年もの間苦しんだ。美沙子はそれを目の前で見ていた。何も出来ない自分が辛かった。しかし、今更、それを妹に伝えてどうなると言うのだ。闘病の苦しさは、本人とそれを見守っていた自分にしか分かる筈がない。そういう自負があった。今更、分かったふりをして優しい言葉をかけられるのも嫌だった。
最後の数日間、母の意識がなかったのは本当だ。だから最後の最後に母が苦しんだかどうか、実際のところは分からなかった。
「やっぱり連絡してくれれば良かったのに……」
その複雑な心境も知らずに、妹が彼女を責める様に言ったので、美沙子は身体中の血が熱くなるのを感じ、再びきつい口調に戻った。
「連絡したって、どうせ来られなかったじゃない。フランスだかイタリアだかに行っていたんでしょ!」
「アメリカよ。ニューヨーク。新しいブランチが出来るんで、立ち会っていたのよ」
「ブランチ?」
「支店の事よ。ウチの会社の支店が今度向こうに出来るの」
「だったら支店って言いなさいよ! まったく、何でも横文字にして!」
美沙子の電卓を叩く音が高くなった。背中から怒りといらだちが吹き出している。
ああ、怒らせてしまったな、と尚美は思った。美沙子は怒ると無口になる。このままだと、これ以上、互いに何も話さずに朝を迎えてしまうかも知れない。それではまずい。今日は別に姉と喧嘩をしに来たわけではないのだ。
何か話のきっかけになる物を求めて、尚美は和室にいる美沙子の方へ近寄って行った。
「何やってんの?」と無理に明るい声で聞く。
「お香典の整理」美沙子は無愛想な声で答える。
「ふ~ん」
畳の上に膝をつくと、尚美は美沙子の手元を覗き込んだ。B5のノートの中に子供の頃から見慣れている美沙子の几帳面な字が並んでいる。その字を見ると尚美はいつも劣等感を感じたものだ。
小学校に上がるころから美沙子は大人びた字を書いた。それに比べ尚美の字は毛虫が這いずり回る様な感じで、それを見た大人はみんな「尚美ちゃんは字が汚いわねえ、お姉ちゃんに教えてもらいなさい」と言った。「子供っぽい字」であればまだ良かったのだが、「汚らしい字」という言い方は尚美をひどく傷つけた。それでも大人になるにつれてそれなりになってくれれば良かったのだが、高校生になっても尚美の字は相変わらずだった。その代わりと言っていいのか、パソコンのキーボードの扱いはとても上手くなった。
「ねえ、男の人、沢山来た?」
「えっ?」
妹の唐突な質問に美沙子が振り向いた瞬間、尚美は美沙子の肩越しにノートを奪い取った。美沙子は舌打ちをして取り返そうとしたが、尚美は肩でガードするようにして、ノートに書かれた参列者の名前をチェックし始めた。
「あ、駅前の喫茶店のおじさん来てるじゃない……これは美容室のマスターね、お母さんのお気に入りだったもんね……それから……あ、これ、井崎さんじゃない。やっぱり来るんだ!」
「誰よ、井崎さんて?」
最初は呆れて聞いていた美沙子だが、尚美の声のトーンが明らかに変わったので、反射的に受け答えしつつ尚美からノートを取り戻し、香典の集計作業に戻った。
「あれ、お姉ちゃん知らないの? 井崎財閥の御曹司。お母さんの初恋の相手よ」
「初恋?」
「高校の頃に知り合って、卒業後につきあい始めて、結婚の約束までしたんだけど、向こうの両親が反対して、結局、別れちゃったんだってさ。それでね、知ってる? その人、親に決められた相手と結婚式を上げる当日、お母さんところに電話をしてきたんだって……僕は今日、他の人と結婚しますが、心はあなただけを思っていますって……もう、すごいロマンチック!」
尚美が興奮気味にしゃべるのを、美沙子はただ聞き流していた。
「お姉ちゃん、聞いたことないの?」
「そう言えば、お母さんのお棺にすがって号泣していた男の人がいたわ……あの人かな」
「……まあ、お姉ちゃんに話してもノリが悪いもんね」
「だから何なのよ。その人と結婚していたら、私たちはこの世にいないのよ」
「あ、この川西って言うの、お父さんの会社の後輩だった人だよね。この人もお母さんに惚れてたよね」
尚美は美沙子の手元を覗き込みつつ、まだ母親の通夜に現れた男たちの探索を止めなかった。
「絶対そうだよ。だってお父さんの忘れ物だって、わざわざ家まで届けに来たのよ。しかもお父さんが出張している時……あれ、絶対にお母さんを狙ってたんだよ。で、お母さんもそれが分かってるくせに、部屋まであげてケーキまで出しちゃってさあ……」
「何、嬉しそうに話しているのよ」
「だって……」
「自分の母親が父親以外の男にもてたからって、娘が喜ぶことないでしょ?」
「そう? あたしは嬉しいけどな。いつまで経っても異性にもてるって、女にとっては理想的じゃない。あたしも将来はそうなりたいなあって……」
「あの人は寂しかっただけよ」
美沙子の口調は厳しかった。こういった話題になると、姉の美沙子はいつも母親に対して厳しかった。尚美は中学生にもなればボーイフレンドの話題を家庭に持ち込むようになり、母親の芳江もあれやこれや口を出して二人で盛り上がっていたが、美沙子は父と二人で白けた顔をするだけだった。
「お父さんは、間に合ったの? お母さんの最後の時に……」
さすがに話題を変えようと思い、尚美はずっと気になっていた事を切り出した。美紗子の答えは尚美の予想の中で最悪の、しかし想像通りのものだった。
「入れるわけないでしょ。会いたいって言って来たけど、追い返したわよ」
「ひどい」
「何がひどいのよ。お父さんが私たちにした事を思えば、当然よ」
「まだ怒ってるの?」
「当たり前じゃない」
「でも、もう十年も経つのよ。お父さんだって反省してるし……あの女の人ともとっくに別れちゃったし……」
「だからって、忘れられるもんじゃないわ」
美沙子の言葉は少しずつ激しくなって行った。このまま、またあの陰鬱な言い争いが始まるだろうか? やはりあそこから一歩も前には進めないのだろうか……そんな思いが尚美の心を覆い尽くしそうになった時、尚美の携帯電話が鳴り始めた。尚美は少し少し救われた思いで、ショルダーバッグからストラップが沢山ついた携帯電話を取り出した。
「はい、私です」
ビジネス向けの大人っぽい声を出し、美沙子に背中を向けて話し始めた。
「なんだ、江本くん? 聞いたわよ、クレームでしょ? 駄目よ、あなた、中途半端な説明しちゃ、余計にお客さんが混乱するでしょ? あなた、この間もそうだったじゃない。そういう時はまず私に報告する。分かる? 責任者は私なんだから」
年下の部下の男のミスを叱責しながら、尚美は背中越しに美紗子を意識していた。自分が今、仕事上で置かれえている立場をそれとなく伝えたかった。電話の向こうの江本くんは、直美に叱責されて弱気の声を出している。ここは少し上司としての余裕を見せる所だ。
「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。月曜には先方に行って謝っておくから……私、いま実家の方に来ているから。何かあったら必ず報告するのよ。分かった? それじゃあね」
電話を切るとわざとらしくため息をつく。
「あなた、もう帰ったら。何か忙しそうだし……」
「え、あ、大丈夫よ。ちょっとしたクレーム。最近の男の子って使えないわよね」
「あなたがそこにいると邪魔なの。イライラするのよ」
「ま、そう言わないでよ。もうすぐお父さんも来るし」
尚美はわざとさりげなく言ったが、父親が来るという情報は美紗子をうろたえさせた。
「呼んだの」
「うん」
「何で?」
「何でって事ないでしょ。分かれたとは言え、一度は結婚して二人も子供を作った相手んんだから……お葬式に呼ばない方が不自然じゃない」
尚美の言うことの方がもっともなのは美沙子にも十分わかっていた。
「大体、お姉ちゃんはどっちかって言うとお父さん派だったじゃない。二人して難しいニュース番組とか見ちゃってさ。あたしとお母さんはドラマとかバラエティが見たいって言ってるのに、二人して『あんなクダラナイもの』って馬鹿にして……それなのに今じゃお父さんの悪口ばっかり……離婚の時だって、お姉ちゃんはお父さについて行くと思ってたもん」
尚美はそこまで言ってハッとなった。
「あ、もしかしてこういうこと? お姉ちゃんはお父さんが好きだった。だから、お父さんの浮気がばれた時、実は一番傷ついたのはお姉ちゃんだった。だから、お姉ちゃんはお父さんを憎むようになった……こういう事?」
美沙子は黙っていた。
「えっ、図星? やっぱり? あたしってアタマ良い? て言うか、今頃気づくって遅い? あたしってやっぱりバカ?」
「何一人で盛り上がってるのよ」美紗子は苦笑するしかなかった。
「そういう事か……」
「そんな単純な事じゃないわよ」
「いやいや、絶対にそうよ。やっと分かったわ」
「勝手に分かってなさい」
尚美は一人納得した様に何度も頷いている。
「あなたこそ何でお父さんについて行ったのよ。相手の女の事、あなただって散々文句言ってたじゃない。なのに何で?」
「それはね……お姉ちゃんには分からないと思うな」
「全然、分からないわよ」
「要するに私はここから飛び出したかったのよ」
「ここからって?」
「この家族からも……この街からも……」
尚美の口調は先程までの明るいものではなくなっていた。この際、何もかも打ち明けよう、そんな気持ちになっていた。
「ウチはさ、結局、お姉ちゃんを中心に回っていたからね」
「なにそれ?」
「だって……お姉ちゃんは成績も優秀で、ご近所の評判も良くて……お父さんだって、お姉ちゃんは大学まで進学させたけど、あたしは高校で終わりだったし……」
「それは……あんたが行きたくないって言ったからでしょ? 成績だっていま一つだったし……」
美沙子の言葉には尚美に対する意地悪と自分は優秀だったという自負が混じっている。尚美は勿論、それを敏感に感じ取っていた。今までもずっとそうだった。姉の美沙子は言葉も態度も優しかったが、その裏には妹に対する優越感があった。常に上から下にいる者を保護する、そんな空気が漂っていた。勿論、姉なのだから当然なのかも知れない。しかし、尚美が気に障るのは、姉の優秀さを父や周りの人間が、尚美を推し量る基準として、当然のごとく語る事だ。ほんの数年先に生まれただけで、何故こんなにも違う
「行きたくないって言ったのは、お姉ちゃんと比べられるのが嫌だったからよ!」
尚美の感情が唐突に爆発した。しまったと思った。今日は最後まで冷静に話をするつもりだった。子供の頃から姉と言い争いをすると、いつも最後には尚美がヒステリックに泣きだしてしまった。それを見て姉はクスクスと笑って、まったく子供なんだからと、それまでの経緯のすべてが尚美の子供っぽいわがままからでた様に話を納めてしまう。尚美がそれが嫌でしかたなかった。だから、今日は泣かずにおこうと心に誓って来たのだ。しかし、もう止められなかった。
「どうせ、あたしの入れる大学なんてお姉ちゃんが入ったところと比べれば大した事ないし……比べられるのは高校までで十分。そう思ったからね。そしたら、お父さんとお母さんが離婚して、お父さん、東京に住むっていうじゃない。内心『ヤッターッ!』って感じよ」
「それじゃ、あなた、東京に行きたいから、お父さんについて行ったって言う事?」
「もちろん」
「あきれた」
「だからお姉ちゃんには分からないんだって……この町にいたんじゃ、あたしはずっと福島さんちの出来の悪い妹のままなんだから。
けど人生って分からないもんよね。あなんなに成績優秀で、将来は実業家にでもなると思っていたお姉ちゃんが、大学を卒業したらすぐに結婚しちゃって、今じゃ二人の子持ちの専業主婦だもんね。そしてあたしはバリバリのキャリア・ウーマン!」
「何がキャリア・ウーマンよ。ただの美容師じゃない」
「あ、分かってないなあ。そりゃあ、最初はただの美容師だったわよ。でも今じゃプロジェクト・マネージャーって肩書だからね。あ、名刺あげるね」
尚美はショルダーバッグから、ニューヨークで手に入れたばかりの薄いアルミ製の名刺入れを取り出し、何度もやり直しをしてやっとデザインにオーケーーを出したご自慢の名刺を美沙子に差し出した。美沙子はチラリと視線を送っただけで、わざと関心なさそうに自分の作業に戻る。尚美は名刺を裏返し、英語で書かれた面を表にして、美沙子の鼻先に突きつけ、解説を始めた。
「裏にうちのブランチが書いてあるの。ほら、日本に三店舗で、今度ニューヨークにも出展する事になったの」
「ニューヨークなんかで日本人が商売になるわけ?」
美沙子は依然として無関心を装っている。尚美は美沙子の作業を邪魔するように、搔き込んでいるノートの上にわざとらしく名刺を置いて言葉を続けた。
「ストパーって知ってる?」
「ストパー?」
「ジャパニーズ・ストレート・パーマ。今、向こうじゃ大評判なのよ。ほら、向こうにはアフリカンな縮れ毛の人が多いじゃない。あの人たちの中にも、髪の毛をストレートにしたい人が沢山いるのよ。だから、もう予約で一杯!」
「ふ~ん」
尚美の熱心な語り口に少しだけ興味を持った美沙子は、始めて尚美の名刺を手にとった。
姉妹は共にくせっ毛で、それが子供の頃からの悩みだった。特に姉の縮れ毛は妹以上で、外見にはあまり気をつかわない美沙子の唯一の悩みであり、風呂上がりのブラッシングだけは熱心であった。
「お姉ちゃんも一度やってみる?」
「結構です」
「一度やったらみつきになるわよ」
「そういうの興味ないの。知ってるでしょ?」
美沙子は名刺を尚美の方へ押し戻した。なんだよく分からないパーマの事くらいで、今更、姉の威厳を失うわけにはいかないのだ。
相変わらず頑固だなあと思いながら、押し戻された名刺をそっと机の端に戻すと、尚美はお茶セットのある方へ行った。言い争っているうちに喉が乾いてきたのだ。ちらりと振り向くと、机の端に残された名刺を、美沙子が自分の左手の筆記用具の脇に移すのが見えた。捨てる気はないんだ、と思い少しだけホッとした。
お茶セットは今どきめずらしくティーバックではなく、ちゃんとしたお茶葉が用意されていた。やっぱり田舎だなあと思いながら、美沙子の分も含めて熱い日本茶を入れていると、再び尚美の携帯電話が鳴った。
「はい。あ、お父さん? あ、うん、分かった。すぐに行くね」
その電話が父からであると分かった時から、美沙子は全身で尚美の会話を聞いていた。
「お父さん、着いたみたい。表にいるって言うから、ちょっと行って来るね。お茶、そこに入れておいたからね」
と言って尚美は出て行った。美沙子はもは香典の整理をしてノートに書き込むという作業に集中出来なくなってしまった。立ち上がり、尚美の入れたお茶を飲み、さて自分も出て行って父を迎えるべきかどうか迷った。すると今度は美沙子の携帯電話が鳴り出した。出てみると五才の息子のタカシからだった。
「あ、タカシどうしたの? え、お腹がいたい? 何か変なもの食べた?」
美沙子はタカシが相手だと普段と違いずいぶんと柔らかい物言いになる。自分では意識していないのだが、娘の真由美などには、「お母さんはタカシにベッタリだもんね」と言われてしまう。
「パパは? 寝てるの? じゃあパパを起こして、ママに電話するように言ってちょうだい。大丈夫よ、そんなに心配しなくても。分かった? じゃあ切るわよ」
タカシの心細そうな声に後ろ髪を引かれたが、とにかく父親と話をしなければと思い、一旦、電話を切った。すぐに夫の携帯に電話を入れたが、予想通り電源を切ったままだった。夫の義明は携帯電話が嫌いで、仕事に必要なので持ってはいたが、寝る時には必ず電源を切っていた。
「まったくあの頑固者が、困ったもんだわ」
美沙子は一人悪態をついて、夫からの電話を待つ事にした。父親がすぐそこまで来ている事を思い出したが、今更、迎えに行く気にもなれず、尚美がおいて行ったお茶を持って座椅子に座り直した。