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小説『ホームレス』第一回

『ホームレス』

 その公園は都会の高層ビルの谷間にまるでオアシスの様に存在していた。などと言ったたら、「何がオアシスだ、使わなくなった浄水場の跡地を、ただ単に埋め立てて木を植えただけじゃねえか」とあの男に笑われるだろうか。「俺に言わせれば税金の無駄遣いだね。ま、俺は税金払わないけどな」と付け加えるかも知れない。
勿論そこをオアシスと感じるかどうかは、その人の立場によって違うだろう。効率だけを考えたら何かの商業施設を建てた方がいいかもしれない。しかし、その公園が長い年月の間、様々な目的で利用されて来たのは確かだ。ビル街のオフィスで働く人たちは、ランチタイムの休息のために訪れたし、金のない学生にとっては良いデートスポットだった。夏の夜などはホテルに行く金を惜しんで、熱烈なラブシーンが演じられる事もあった。それをこっそり覗く人たちも集まって来て、揉め事が起きたりもした。春になれば満開の櫻の下で宴会をする人たちで溢れ、秋には燃えるような紅葉の下、静かに読書する人もいた。冬には真っ白な雪景色の中、雪だるまを作る子供たちの姿も見えたが、最近は地球温暖化のせいか、積るほど雪が降ることもなくなってしまった。
バブル経済が崩壊して不景気な時代に入ってから、そこには今までとは違う光景が現れた。ホームレス達が作った段ボールハウスだ。それは、今まで公園をそれこそ都会のオアシスと思っていた人たちの顰蹙を買い、一部の人の足を遠ざけた。近くには大きなホテルがあり、外国のビジネスマンなどが宿泊していたが、彼らが朝のジョギングの最中にその光景を見た時、この国の経済の弱体化を実感したかもしれない。
 西園寺充がそこを再び訪れたのは、夏の盛りだった。この公園にとってはもっとも人気のない季節だ。照りつける陽光はガラス張りの高層ビルに乱反射し、本来出来る筈の木陰を奪い去っていた。重なり合う様に鳴くセミの声は、暑さに拍車をかけている様に感じる。それでも、数少ない木陰のベンチなどにはリクルートスーツもまだ新しい新入社員が、コンビニで買ったサンドイッチを缶コーヒーで流し込んだりしていた。
 西園寺も彼らと同じように着慣れないスーツを着て、そんな木陰の一つに立った。そこにはベンチはなく、大きな木の幹と公園のフェンスの間のちょっとした空間を立入禁止と書かれた黄色いテープが何重にも行き来していた。何故、そこが立入禁止なのか。彼はその理由を知っていた。
 西園寺がその男とそこで出会ったのは、一年以上前だった。ちょうどこの木の下に彼の家はあった。家と言っても寄せ集めの段ボールで組まれた、ただの箱である。その男はこの公園に住んでいるホームレスだったのだ。そして西園寺自身も同じような境遇だった。
 その日の午後は激しい雨が降っていた。

「参ったなあ、いきなり雨かよ。今日は一日もつって言うから、新しい段ボールを用意したのによ。天気予報の奴、全然当たらねえじゃねえか」
 そんな文句を言いながら、雨合羽を来た中年男が手際よくビニールのごみ袋をテープで張り合わせ、段ボールハウスを覆っていった。ひとしきり「防水加工」が終わると、満足そうにハウスの入り口にしゃがみ込んだ。そこは、ちょうど張り出した大きな枝の下になっていて、雨も降ってこない。
 飲み残しのペットボトルの水を飲みながら遠くを眺めていると、オフィス街に逃げ込むスーツ姿の男女の姿があった。皆、急な雨に慌てふためいている。普段スーツを着てエリート然としている連中のそういう姿を見ているのは、正直、胸がすっとする。反面、そんな事で喜ぶようになっちまったらいよいよ俺も焼きが回ったな、と口の中で呟いたりもする。
 しばらくすると、ジーパンにパーカー姿の若い男が木陰に飛び込んで来た。パーカーのフードを目深に被って走って来たせいで、そこに段ボールハウスがあるのに気づかなかったようだ。参ったなあ、と独り言を言いながら、雨に濡れて重たくなったフードを外して木陰に座ろうした時、初めて段ボールハウスとその住人に気づき、アッと声を上げ、数歩飛びのいた。

「兄ちゃん、そんな所に立ってないで、もっと中に入りなよ」
雨宿りを初めてから何分経ったろうか。ホームレスの男が突然、西園寺に声をかけた。 
「あ、いや、僕はここで大丈夫です」
 西園寺は木の枝が作る大きな雨傘の境界線ぎりぎりに立っていた。もっと幹に近い方であれば新緑の葉が幾重にも重なっていたので、雨は殆ど地上に降りてこない。しかし、そこには段ボールはハウスがあり、その住人がジロジロと西園寺を見ている。彼は肩や袖がじとじとと濡れるのを我慢しながら、早く雨が止んでくれないものかと、何度も空を見上げた。
「大丈夫って事はないだろ。さっきから肩の辺りびしょびしょだぞ。もっと奥には入れって……雨はまだ当分止まねえよ」
 と促されても、頑なに背を向けたまま、「大丈夫です」と繰り返すだけである。男は、「しょうがねえな」とため息まじり立ち上がり、「いいから入れって、風邪ひくぞ」と西園寺の腕を掴んだ。その瞬間、西園寺は「あっ」と声を上げ、つかまれた手を振り払った。
「あ、いや、あの、とにかく僕はここで大丈夫です」
慌てて言い訳をしたが、男は一瞬目を細めると、
「まあ、勝手にしな……」
と言い捨てて元の場所に戻った。
西園寺は、つかまれた腕を振り払った事で、ますますそこに立っているのが気まずくなった。いっそのこと雨の中を走って出て行こうかとも思ったが、一向に止みそうにない空模様を見ていると決心がつかなかった。仕方がないので、男が自分の方を見てないのを確認しながら,少しだけ幹の方に近づき、地面から隆起している根っこの上に座った。
「お前、最近入って来た新入りだろ?」男が聞いた。
「え、あ、いえ、ちょっと通りかかっただけで……」
「嘘つけ。昨日も噴水の前のベンチで寝てたじゃないか。俺はこの公園長いからよ、何でも知ってるんだよ」
 西園寺は、黙って背中を向けていた。
「けど、そんなに若いうちからホームレスじゃあな、大変だな、お前さんも」
「だから僕は違うんです。僕はホームレスなんかないんです。たまたまお金がなくなって、それで……」
「本当かね」
「本当ですよ!」
 あんたとは一緒にされたくない、そんな思いが西園寺の言葉には含まれていた。
「……まあ、そういう事もあらあな」
 男は全てを悟っているかの様に微かに笑うと、段ボールハウスの中に首を突っ込み、何やら作業を始めた。
 雨は以前ほどの激しさはなくなったが、まだ止みそうになかった。西園寺は何度も空を見上げ、何度もため息をついた。腹がグルルルと大きな音を立てた。それを聞いた男は思わず、くすりと笑った。
「どうした? 腹の具合でも悪いのか? それとも腹が減ってるのか?」
無視を決め込もうと思ったが、西園寺の腹は再び大きな音を立てた。
「そうか。そうだろうな。ろくなもん食ってないんだろ? ちょうど今から飯にするところだからよ。どうだ、一緒に食べるか?」
「えっ? いいんですか?」
 条件反射の様に振り向いてしまった西園寺に、何か特別な秘密を喋るように嬉しそうな顔で男は言った。
「実は、今日は馴染みの店にいい残飯が出たんだよ」
「残飯?」西園寺は露骨に嫌悪感を見せた。
「あ、なんか不満そうだな?」
「いや、だって……」
「お前、残飯あさった事ないのかよ?」男は、それがさも当然の質問の様に口に出したが、西園寺にしてみれば予想もしない言葉だった。
「そんなこと……ある訳ないじゃないですか!」
 やっぱりこういう人たちの感覚はどっかおかしい、西園寺はそう思った。
「そんなんじゃホームレスはやっていけないぞ」男は尚も続ける。
「だから、ホームレスなんかじゃないって、そう言ってるじゃないですか」
 西園寺の言葉には怒りといらだちが混じっていた。あんたと一緒にしないでくれ、俺はあんたとは違うんだ、という思いに満ちていた。そんな西園寺の思いを知ってか知らずか、男は饒舌になり始めていた。
「……ま、最初にごみ箱に手を突っ込んで、残飯をあさった時にはよ、さすがに俺も手が震えたよ。何て言うのかな、俺もここまで堕ちたかって……何か人間としての根本を否定された様な気になってな……でも、まあ、人間てのは馴れるもんだな。今じゃ手なんか震えないよ。震えているようじゃ、ご馳走を取りこぼしちまうもんな……ははは」
 男は笑いながら話を続けた。
「それにお前、残飯って言ったって腐ったもんは食わねえよ。賞味期限切れた弁当とか、一口かじっただけのハンバーガーとか、まだ食えるもんが沢山捨ててあるんだから……まあ、経済大国日本に感謝ってところだな」
 西園寺は得意気に貧乏話をする男にうんざりして顔を背けたが、又しても腹がグルグルと音を立て、ううっと呻いて胃袋を押さえ込んだ。
「仕方ねえな……取り敢えず、これでも食ってろ」見かねた男は、リュックサックからまだビニールの包装がしてあるおにぎりを取り出し、西園寺に差し出した。
「これ……いいんですか?」
 西園寺は驚いた顔で男を見たが、もうその手にはおにぎりを掴んでいた。
「見てると、もう一時も待てねえって感じだもんな」
「い、いただきます!」
 いそいで包装を解こうとする手が、すぐに止まった。
「これ……賞味期限切れてますよ」
「だから、さっきからそう言ってるじゃねえか。けどな、お前、賞味期限切れたって一日や二日で腐ったりしねえよ」
「いや、でもこれはもう三日前に……」
「嫌なら返せ」
「あ、いえ、そういう事ではなくて……もしこれを食べてお腹壊したらどうしようかなって思って……」
「胃薬くらい持ってるから安心しなって……」
「本当ですか?」
「まあ、それも有効期限切れてるけどな」
「それじゃやっぱり、このおにぎりを食べたらお腹を壊す可能性があるって事ですよね」
 西園寺は泣きそうな、それでいて自分に向けられている理不尽さを責める様な顔で男を見つめた。さすがに男が呆れて、「食べないなら返せ。それでさっさとここから出て行け!」とそのおにぎりを取り返そうとすると、「あ、食べます、食べます」と慌てて包装を取り、それでも一瞬躊躇したが、目をつぶって思い切っておにぎりに食らいついた。
 二日ほどまともな食事をしていなかった西園寺は、最初の一口を食べた途端に思わず「うまい」と声に出してしまった。そのあまりに素直なリアクションにる自分で自分が恥ずかしくなり、男になるべく顔を見られない様に身体をひねって、無理に真面目な顔をして食べ続けた。男の方は、そんな様子をニヤニヤと観察しながら、自分の作業の続きを始めた。
「しかし雨、止まねえなあ……」
 と男が独り言の様に言うと、おにぎりのお蔭で少し心に丸みが出来たのか、「天気予報じゃ、今日は降らないって言ってたんですけどねえ……」と西園寺が返事をした。
「だろ? 確かにそう言ったよなあ。気象庁も税金使って何をやってるんだか。ちっとも当たらないよなあ。まあ、俺は税金払ってないけどな……」
 男は、そんな事を言いながら読みかけの新聞をハウスの奥から取り出し、折り畳み式の椅子に座って読み始めた。その椅子は何処からか拾って来たものらしく、所々破けていてガムテープなどで補修してあるが、もともとはキャンプなどに使う一流品で、折り畳み式と言ってもちゃんと肘掛けもあり、ゆったりと座れるタイプだった。
「おっ、また円高だよ。これじゃ輸出産業はますます大変だなあ……政府、いよいよ増税か……本当に出来るのかね。ずっと言ってるけど、選挙の度に引っ込めちまうからな……でもまあ、俺の感覚からすると、世界の情勢を見れば消費税はもっと上げないと……まあ、俺は払わないけどな」
 おにぎりを食べ終わった西園寺は、やっと少し落ち着いたらしく、改めてこの独り言の多い、皮肉屋の男を観察し始めた。
「あ、お前さんも読むか?」
 西園寺がじっと見ているのに気づき、男は新聞を差し出した。
「いえ、いいです」
「新聞くらい読んでおいた方がいいぞ。でないと世の中の事が判らなくなっちまうからな」
「そんなもん分かったって僕らには関係ないでしょ?」
 吐き捨てる様にそういう西園寺に対して、男は少し同情するような目つきになった。
「……俺はなあ、こう見えても社長をやってたんだ」
「社長?」
「小さな旅行代理店やっててさ、二十人以上社員を使ってた時もあるんだぜ。いろんなツアー企画してさ、結構稼いでたんだよ。バブルの頃は凄かったぞ。仕事のコネ使ってさ、ベガスに社員旅行だよ。ベガスってラスベガスな。ホテルのスイートでパーティーやってさ、キャビアたらふく食ってさ。お前食ったことねえだろ?」
「へえ、スゴイですね」と答えつつも西園寺は白けた気持ちでいた。バブルの頃の自慢話って奴は、ある世代に共通した悪癖で、以前のバイト先の上司もまさしくそういうタイプだった。別に聞きもしないに、何かというと「バブルの頃はなあ」と話しだす。その上、本人はただの自慢話のつもりではなく、何かそこに人生の教訓でもある様に話すのが、滑稽だった。男の方はそんな西園寺の気持ちなど気にすることもなく、得意気に話を続けた。
「バブルが弾けた後もさ、かなり縮小はしたけど、まあそれなりにやってたんだよ。CMとかミュージシャンのプロモーションビデオってやつ? あれの海外コーディネートなんかも始めて、うまく切り抜けたと思ってたんだけどさあ……2001年の3月11日……」
そこで言葉を切ると、急に芝居がかった仕種で、「ヒューッ、バン」とジェット機がビルに飛び込む様を手で演じてみせた。
「ジェット機がツインタワービルに突っ込んだろ? あれで全てパーだよ。アメリカ行きのツアー全部キャンセル。押さえていたチケットも紙屑同然。海外旅行ブームもCMの海外ロケも一気に萎んじまって……オサマ・ビン・ラディンだっけ? とんでもねえ野郎だよなあ」
 ちいさな旅行代理店の話が突然悪名高き国際テロリスト話につながったので、西園寺は思わず苦笑しつつ、それを男に悟られない様に口元を手で覆った。その時、電子レンジのタイマーの音がチンと響いた。
「お、出来たかな」
 男は突然話を切り上げると、膝をついて段ボールハウスの中に首を突っ込んだ。西園寺も、気になってその背後から中を覗き込む。小さなホテルの部屋にある様な四角い冷蔵庫と、旧式だがあまり汚れてはない電子レンジが見えた。
「おお、美味そうだ。アチアチ」
男が取り出したのは、厚さ三センチはあろうかというビーフステーキだった。
「え、あ、これは……」西園寺は驚いてステーキを指差した。
「これが俺様の晩飯よ。どうだ、いいだろ?」
「こ、これ、一体どうしたんですか?」
「だから言ったろ? いい残飯が出たんだって」
「残飯って……これは、でも」
「向こうの大通りを一つ裏に入った所にさ、三つ星のレストランがあるんだ。そこにはたまにこういうのが出るんだよ。言わば三つ星の残飯って奴だな」
 得意気に語りながらナイフやフォークを取り出して、食事の用意する男の姿を横目に、西園寺はステーキから目が離せなくなっていた。
「これ……僕も食べたいな……」
「お前、残飯は嫌だって言ってたじゃねえか」
「いや、でも、残飯って言ってもこれは……」
 ジュウジュウと音を立てて溢れる肉汁。そこから漂うなんとも言えぬ焼けた肉の匂い。つい先程おにぎりを一つ食べたとはいえ、それだけで二日間も絶食している空腹感が癒える筈もない。西園寺は、強烈な食欲に身悶えを押さえきれない。
「そろそろ帰れよ。雨もやんだぞ」
 男がぶっきらぼうに言った。確かに雨は止んでいた。雲の切れ間から青空が見え始めている。しかし西園寺はもうそれどころではなかった。肉の乗った皿に顔を近づけ、今にもかじりつきそうな勢いだ。そんな西園寺の襟首を、突然男が掴んだ。そして乱暴に引き起こすと、突き放す様に段ボールハウスから遠ざけた。
西園寺は男の目つきが今までと違う事に気づいた。
「これはな、俺が苦労して手に入れた今夜のご馳走だ。他人は食わせねえ。もし食わせてもいい奴がいるとしたら、それはホームレスの仲間だけだ……ま、俺にはそんな奴はいねえけどな」
 男は西園寺に背を向け「ディナー」のセッティングを続けた。いつの間にかキャンプ用のテーブルが設置され、白いテーブルクロスの上にナイフとフォークとナプキンが置かれた。そして縁が少し欠けているが、それ以外は一流レストランに出てきても遜色のない立派なステーキ用の皿に先程のステーキが盛りつけられ、厚くスライスしたバケットとクレソンが添えられた。男はナプキンを馴れた手つきで襟元に挟むと、ナイフとフォークを手にとり、優雅な手つきでステーキにナイフを入れた。
「僕……帰る家がないんです」
男がステーキを口に入れようとした直前、西園寺の絞り出す様な声が聞こえた。見ると背中が震えている。
「見たところまだ若そうだし、実家があるんだろ。さっさと帰りな。皆、心配してるぞ」
「あそこには二度と帰りません」
「家出して来たのか」
「……高校を出た後、地元の会社にオヤジのコネで入ったんだけど……上手くいかなくてすぐに辞めて……こっちに出て来て……派遣とか日雇いとかやってたんだけど……部屋借りる時にサラ金で借りた借金が払えなくなって……アパート追い出されて……この前までネットカフェにいたんだけど……そこの金もなくなって……それで三日前からこの公園のベンチで……」
何とかそこまで話し終えた西園寺は、力尽きたようにしゃがみ込んでしまった。震えていた背中がやがて大きくしゃくりあげる様になる。そして嗚咽まじりに、「僕にはもう帰る家なんてないんです」と泣き崩れた。
フォークに刺した肉片を中途半場な位置に止めたまま西園寺の話を聞いていた男は、軽くため息をついた後、その肉を口に放り込んだ。
「よし。まあ、いいだろう」
 分厚いステーキを咀嚼しながら男は言った。
「お前も立派なホームレスだ。食ってもいいぞ」
「えっ?」
「ほら、こっちに来て座れ」
「え、いや、でも……」
 男の突然の変心に西園寺はまだ戸惑っていた。男は一端手にしたナイフとフォークを皿の上に置き、段ボールハウスの裏に隠してあったもう一つの折り畳み式の椅子をテーブルの前に設置して、西園寺の腕を引っ張って強引に座らせた。
「これがナプキン。確かもう一つナイフとフォークがあったな。ほら、これだ……」
 手際よく西園寺の分もセッティングする男に、その真意を聞くなり、感謝の言葉を口にするなりすべきだと思いながら、西園寺の口から出たのは実に間の抜けた質問だった。
「あの……箸じゃ駄目なんですか」
 西園寺はナイフとフォークで食事をするのが苦手だった。
「駄目だよ。ステーキはナイフとフォークで食わないと。気分だけはリッチに行かないとな」と言いながらステーキを切り分けて、西園寺の皿に盛りつけた。西園寺はまだ何か聞きたい気分であったが、ステーキの切り口から美味そうな肉汁が滴るのを見ると、早く食べたいという思いの他には何も考えられなくなった。
「さて、食べるか」
「はい」
「ちょっと待て……ナイフは右、フォークは左」
 注意されて西園寺は慌てて持ち替える。
「それでは頂きます」
「頂きます」
 二人は同時にステーキを食べ始めた。二人の口の中に三つ星レストランの分厚いステーキの肉汁がじんわりと広がった。
「どうだ、美味いだろ?」
「う、美味いです! こんなに美味いステーキ、食べた事ないです」
 西園寺は何かこみ上げてくる動物的な衝動に涙を流していた。流しながらも次の肉片を口の中へ放り込んだ。そしてさらに涙を流した。雲が割れて太陽が顔を出した。太陽の光はガラス張りの高層ビルに反射して二人のディナーテーブルの上を照らした。ミディアムレアに調理されたステーキの断面が鮮やかに赤く光った。二人は、顔を見合せ、笑顔になり、そして食べ続けた。

つづく。


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