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スイングバイ! 第3路:地下鉄(メトロ)に乗って

清々しい朝だった。僕の特技は、どんな場所でも、どんな状況でも、わりと問題なく寝れることだった。
 僕が宿泊している部屋は、いわゆるドミトリータイプで、一部屋に2段ベットが3つ設置されていた。部屋には女性が2人、男性が僕を入れて4人いて満室だった。とりあえずと言う感じで僕は、この部屋を3日予約していた。
 同室にいる誰にともなく「グッドモーニング」と声をかけてみる。何人かが「グッドモーニング」と返事をくれる。当たり前と言えば当たり前だが、どこかよそよそしい雰囲気だった。
 狭い部屋とは言え、それぞれ自分のベットと言う聖域を持っており、無理矢理話しかけて、その聖域を侵すようなことがあれば良くないことが起こるとでも言うようだった。そして、それは概ね正しいことのように僕にも感じられた。
 話しかけたいけど話しかけれない。僕らの周りには人種とか国籍とか言語とかある種の壁があるようだった。いや、本当は壁なんかない。自分の心に正直になれば、単に勇気が出ないだけだった。いくらでもチャンスはあるさと切り替えて、ゲストハウスを抜け出して北京の街に出かけてみる。

 安定門の街を歩いて回った。無料で見学できる史跡(宮殿跡)や美術館があり、公園では爺様たちが中国式の将棋に興じていた。歩けば歩くだけ新しい発見があって、ちっとも飽きなかった。
 昼飯はふらりと入った定食屋さんでメニューを見ながら何品か適当に注文してみた。メニューは、ほぼ日本で使っている漢字と同じなので問題なく注文することができた。出てきた料理を食べてみる。美味しいけど香辛料がキツくて、日本で食べる中華が最強なんだよなーと思っていた。しかし、何げなく水餃子を一口食べて驚いた。「う、うまい」生地はもちもち、ツルツルしていて、中の餡には、肉と野菜。溢れんばかりの肉汁だった。
 それから暫く、僕は水餃子を探し周るマシーンと化して、見つければ注文して食べ続けた。どの店も美味しかったが、初めの店に勝るところは無い気がした。ふと、以前にも似たようなことがあったことを思い出した。
 僕が社会人になり、大阪で働き始めた頃、同じように関東から引っ越してきた学生時代の親友と一緒に大阪中のたこ焼きを食べ歩いたことがあった。たこ焼きを食べ続ければ大阪の心を理解できると信じ、それを実行したのだ。梅田、難波、天王寺とたこ焼きでパンパンになった腹を引きずり歩いて回ったが、結局得られたのは大阪の心ではなく「一番美味しいのは銀だこ」という青い鳥的な結論だった。
 まぁ、例え無駄足だったとしても歩き回ったから得られた結論ではないか。何事もやってみなければわからない。

 僕の北京での主な移動手段は地下鉄だった。ほぼ全ての観光スポットに通じている便利な交通機関だった。
1号線から15号線まであり、色分けされていて非常に分かりやすくて、乗り換えも簡単だった。それに安かった。
 僕はどこに行くにも地下鉄を利用し、ガイドブックに乗っていた天安門広場、故宮博物院、十刹海《シチャハイ》、南鑼鼓巷《ナンルオクーシャン》、門前大街《ぜんもんだいがい》などを訪れた。


 印象的な出来事としては王府井大街《おおうせいだいがい》でサソリを食べたこと。
王府井は日本で言ったら新宿のような雰囲気を感じる古くから栄えている繁華街であった。大きなデパートやビルがある大通りから横路に少し入ると飲食街があり、たくさんの屋台とおみやげ屋があった。そしてここの屋台の名物がサソリの串揚げだったのだ。僕は新しいものや試したことがないものがあると試してみたくなる質《たち》で、例えそれがどんなに地雷臭がしても挑戦したくなるのだ。
 例えば大学1年の頃に参加したフィリピンでの海外研修では、現地に到着した初日にバロットを食べた。「君はなんてものを食べてるんだ。」と友人たちにブーイングをくらったが、気にせず食した。
 バロットが何であるかはここでは関係ないし、あまりに衝撃的な見た目であるため詳細は伏せるが、気になる方は自己責任で調べて頂きたい。《一応》玉子料理とだけ。。
 まぁ、とにかくここでサソリに挑戦するのは僕にとって当然と言えば当然だった。「とりあえず大晦日には紅白歌合戦を見る」ぐらい当然と言えば当然だった。
 サソリ串。まさかここまで産まれたままの姿で登場されるとは。。なんいうか思ったよりイカツイ。
毒とか大丈夫だよな。と思いながら食す。感想としては悪くない。が良くもない。カリカリの食感と味は川海老ぽいが口のなかにざらざらした物が残った。例え打率が低くてもこれからも新しいものに挑戦し続けよう。いつかホームランを打ってやる!



 もうひとつ地下鉄について。北京の地下鉄は基本的に日本のそれと変わり無いのだか、ひとつだけ大きく違うことがある。それは物乞いの存在だ。ある人は目が不自由で馬琴を演奏しながら車内を歩き、ある人は赤ちゃんを抱えながら乗客の袖をひっぱり、ある人は足を引きずりスピーカーから音楽を流している老婆だった。地方からの出稼ぎ物乞いもいるらしく、ビジネスとして成立しているようだった。
 意外なことにと言うか、多くの人がお金を与えていた。その人達の姿は何となく僕に人の世の哀れを感じさせた。
僕はこんな時にどう考えればよいのだろう。哀れむ、叱る、励ます。 どれも違う気がするのはなぜだろう。
 大学時代の恩師は、国際社会が抱える貧困を解決する手段として、川を例え話にしていた。川上から赤ん坊が流れて来ているようなものだと。川下で赤ん坊を救う役割も必要だし、川上に行き、なぜ赤ん坊が流れてくるのか確かめて止める役割も必要であると教えてくれた。
 今の僕にいわゆる川上にあたる社会構造を変えることは出来ないだろう。でも、お金を渡すことで川下の問題解決の一助になるかも知れない。
 しかし、僕はお金を渡すことはしなかった。それが彼らの為になるかは、結局はケースバイケースであり、それを見極めることは不可能であった。でも、いつかお金を渡すことが必要であると確信したら渡すかも知れない。わからない。わからないまま電車は進んでいく。人生を電車に例えるのは陳腐であろうか。今日も僕は地下鉄《メトロ》に乗っている。

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