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映画『ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ』はなぜつまらないのか


これまでの投稿とは毛色が全く違いますが、

たまたま公開日に予定があって観に行った
『ジョーカー: フォリ・ア・ドゥ』のお話を。

いつもはこんなんあげてますm(__)m


大変賛否両論を巻き起こしている本作だったので
観る前はなかなかに構えて観に行ったのですが、
私個人としては非常に好きな映画だったのです。

...ん?

タイトルで「つまらない」と書いているので
映画に低評価の方が多く覗きにきたのでは?


私個人としては"あえて"つまらなく描いてこそ
今作の面白さに活きているように感じたのです。
そこをお話しできればと思います。

※この先今作の結末に関するネタバレあり
鑑賞後に読まれることをオススメします。


◉前作の期待をへし折る作り

前作で築かれた肥大化された"ジョーカー像"や
原作のような"カリスマ性"を根本から無にする
そういう意味では期待を裏切る作品でした。

『キング・オブ・コメディ』『ファーザー』的な
前作の"どこまでが彼の妄想なの分からない"ような
作りが鑑賞後の余韻を生んで味があったのですが、

今作はそんな曖昧さは無くなりハッキリと
"妄想と現実"の語り分けをする作りでした。

そして社会不適合者の男が金持ちを殺すという
ある種ダークヒーローのように独り歩きした
前作の英雄誕生譚をばっさり切り捨てた
作りだったからこそ心に刺さるものがあるのです。


◉自分と乖離していく"影の自分"

今作は逮捕されたアーサー(ホアキン・フェニックス)
が裁判にかけられ生涯を終えるまでを描かれています。

自分が一線を超えた一時の暴走が神格化された結果
周りには更なる暴れっぷりに期待する人しか現れず自分の恋したリー(レディ・ガガ)でさえそう。

最初はその"世間に仲間が沢山いる"ことに喜んで
再びジョーカーとして歓声を浴びる自分を夢見るも
リーや信者含めて暴走を期待する周りの人間と
裁判を通して周りに本当の自分が捲れ始めていくことに嫌気が差し始めるアーサー。

最初のカートゥーンシーンで描かれる"影の自分" がいつの間にか独り歩きして、いつしか"本当の自分"
より"影の自分"の方が世間から求められてしまう。

というのが本当に悲しくなってきます。


◉なぜ今作がつまらないのか

元職場の同僚から「アーサーだけが自分の見た目を一度も笑うことはなかった」と聞いて自らの考えが
ブレ始めるアーサーでしたが、

いっそ全員殺してしまえば楽だと妄想もするが
結局行動に移す度胸もなかった。

今作はとことんアーサー・フレックスという人間の
内面に前作以上に向き合っている作品で、
くどくて似たようなミュージカルを脳内で何度も
再生しているし、考えたジョークもつまらない。
金も学も恋人もいないただの社会不適合者こそが
本当のアーサー・フレックスだから。

本物の狂気に満ちているのはリーであったり、
最後アーサーを刺し殺し、自らの口を裂いていた
あの受刑者たちのことであるのです。

アーサーの脳内ミュージカルシーンは
そりゃあ退屈でつまんないです。


生放送で撃ち殺した時も音楽が流れていたと
アーサーのセリフがありましたが、
前作で描かれていないだけで彼の脳内では
単調なミュージカルが流れていたことでしょう。

前作が「躁」なら今作は「鬱」であって
とてもじゃないけどこんな話鬱々しすぎて
ミュージカル要素なしではキツすぎます...。

劇中の大半が裁判シーンという単調さもあってか、
かなりの頻度で挟まれるガガ様とのミュージカルが
少しだけポップな印象に仕上げてくれています。



そんなこんなで予想以上に楽しめた『ジョーカー』続編でした_(:3 」∠)_ヨンデクレテアリガト

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