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エンゼルフィッシュ 中年の恋の化石③






私の様な愛想の無い人間でも毎日顔を合わせている内に釣堀の老店主とは多くはないがそれなりに会話を楽しむ様になっていた。


ある日店主は何かを悟った様に微笑して私にこう呟く。「今月一杯で私は退職するんだ。この釣堀もいつしか利用者も増えて別の形になりつつある。老体はこの機会に引退して後任の者達で何か新しい形へと盛り上げて行って欲しいとオーナーに告げたんだ。」


…そうですか。
長い間本当にお疲れ様でした。


これは良い機会かも知れない。誰かの引き際に便乗するのも一つの手だ。



その夜滅多に夢を見ない私だが珍しく夢を見た。何か紅いトサカと髭のある生き物がいる。鶏?



夢のせいかは分からないが翌日釣堀で奇妙な事が起こっていた。


もう盗難の心配も無いと放置していた私の網が斬り裂かれている。他の客が放置したものは何ら異常は無い。ハサミというより何か日本刀くらいの刃物が中で行き来した様な破れ方だ。何だろう。


魚達と顧客達の様子は相変わらずだ。それらの各自賑やかなやり取りを眺めながらこの綺麗な夕陽と共にこの場所での活動を終える。もうこの歳で新しい事など始められないと思っていた。心が打ち震える事など無いと思っていた。しかしそれは思い過ごしだった。幾つになっても恐らくそういった感情とは自分自身を磨いている限り無くなる事は無いのだ。


私はそれでもありとあらゆる事を試してみた。神頼み、願掛けは言うに及ばず自分が大魚を釣り上げる絵を描いて枕の下に敷いてみたり釣堀のテーマソングを作曲してみたりもした。しかしやればやるだけ自分に跳ね返って来るのは羞恥と虚しさだけだ。全てが徒労に終わった。


特定の時間になると客足が遠のいて釣堀に完全に一人きりになる事が何回かあった。こうゆう場所でのこういったシチュエーションもこれが最期だろう。寂しいというより何もかもが自分一人のものになった気がして私はその時間が好きだった。そんな時にその声は聴こえて来た。



……ノ イロハ ナニイロ



つづく

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