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華氏451度について
私が本を積極的に読もうと考えた大きな契機の一つとなったのは、レイブラッドベリ著の『華氏451度』である。簡単に言えば、この小説は本が燃やされる近未来を描いたディストピア小説で、「本という媒体の本質とは?」という問いに答えてくれる作品だ。この小説に関して考えることは沢山あるので、その一部を文字に起こしたいと思う。
この本の内容で、私の考え方に最も影響を与えているのは、本のどこに価値があるのかということを、フェイバーという元大学教授の老人が語る部分である。本自体が重要なのではない(本フェチは良くない)、重要なのはその内容だーここまではなんとなく自分の中でも分かっていたと思う。そしてこう続く、重要なのは、①情報の本質、②それを元にした内省的思考、③それに基づいて行動を起こすための正当な理由であるーこれこそ、今の私の考え方の大きな部分を占めているものである。要するに本を読んでしっかりとした情報を取り入れ、それを材料として自分で考える。考えるだけで終わるのではなく、その考えの正当性を論理立てて、実際に行動に繋げるまでが重要だ、と言っているのである。
この観点から考えれば、今の教育体制ー知識詰め込み型教育ーは良質な教育体制であるとは言えないだろう。まず、教育とは彼の思考体系を高めるべきものであるべきで、知識のインプットをその目的とするべきではない。その意味で言えば、知識の詰め込みは何でもない、ただの作業である。
ということは、知識詰め込み教育はなんの意味もないーあなたは歴史的出来事の年号を知っていて何か得をしたことがあるだろうか、いや、ないだろう、何か本当の学びがあるのならばその中身にあるのであるーということを強調させていただきたい。枕草子がいつ書かれたのではない、清少納言がどのような意図を持ってどのような物語を書いたかが重要なのだ。その中身にこそ情報の本質があり、私たちが人生を幸せに生きていく上で必要になるであろう「学問」の門戸が開かれるのである。
ここまで長々と、私の考え方と唐突な教育への考え方を述べてしまいましたが、しかし、少なくとも日本に生まれて教育の機会を得ることができる子供たちは、「勉強」と「学問」どちらも大いにやっていただきたいと思います。ここで言う勉強は立身出世のための、学校でやらされるつまらない知識のインプットのことで、学問は各人が自分の学びたいエリアの情報を得るために本を読む、何らかのフォーラムに参加するなどして行う能動的な学びのことです。私は勉強は本質的には意味はないと思いますが、それでも自分の行きたい大学に行くべきには必要です(もちろん、大学なんて行かねえよ!っていう人は学問にだけ取り組んでどんどん自分の考え方を深めてほしいと思いますが)。今の社会では、高校までは勉強と学問の両方に取り組むことが必要なのです。それで晴れて行きたい大学に行けた!という人も、行けなかったという人もおめでとう!あなたはこれから学問に集中することができるのです。もう、勉強なんてやめてしまって、自分の人生を豊かにするための学びに集中することができるのです。良い大学ほど重要な気づきを与えてくれる先生がいるでしょう、もしいなくても本で学べば良い!学問の門戸はどこにいたって開かれています「本が燃やされる社会じゃなくて本当に良かったではないですか)。
学問に浸り切ることが出来たら、それを何らかの行動につなげていただきたいと思います、私もなかなか繋げられていないのですが、認識を高めるだけでは何も変わらない、行動によってこそ現実を変えられる可能性が発生するということを胸に刻んで、これからを過ごして行きたいと思います。
ほぼ『華氏451度』は関係なくなっちゃいましたが感想文でした!
本内容に影響を受けたと思われる本
『華氏451度』
『金閣寺』
『眠れなくなるほど面白い孔子』