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母の日に〜笑顔の母とあっぱれな最期を思い出して〜
今日は母の日…
今、私にはもう「母」と呼べる人はこの世にはいない。
実家の母が亡くなって12年が経つ。来月13回忌を迎える。私の50歳の誕生日の2日前に、乳がんで亡くなった。
4人姉妹の中で、私が一番母に似ていると、いつもみんなに言われる。
キッチンの隅に母の写真を飾っているのだが、孫たちはそれを見て、幼い頃は間違えて、よく「これ、おばあちゃんだね」というので、「これはね、おばあちゃんのお母さんだよ」というと、「えー、本当?」と言われた。
それぐらい母とはそっくりらしい。
実家に帰省して、母を知る人たちに会うと、私が挨拶をする前に、「あら!〇〇さんの娘さんね!そうそう、その顔その顔、その笑顔に会いたかったのよ。顔が一緒だから、言わなくてもわかったわ。」と言われる。
母がみんなに遺したのは、あの「笑顔」だったと、再確認する。いつも『和顔施』を心がけた母だったのだ。
地元の友人たちにも「〇〇ちゃんのお母さんの笑顔が好き。ホッとする。」と言われて、ちょっと嬉しかった。
歳を重ねるほどに「母」が一層そばにいるように感じられるのは何故だろう。
子供を3人産んだ後には、「お母さんは5人の子を産んで育てたんだよね…」と、母の子育ての苦労を思った。
子どもたちの思春期の反抗に立ち向かった(?!)時には、かつての日、私も母をひどい言葉で批判して傷つけたことに、懺悔の思いとなった。
子どもの受験に一喜一憂していた時には、私もたくさん心配をかけてきたのに、母は何も言わずに、ただ見守ってくれていたことに感謝を新たにした。
3人の子の結婚に際しては、とても自分がしてもらったのと同じことはしてやれないと思って、ただただ親の器の大きさに感服した。
私のことを守り続けてくれた母は、最期の時を前にしてさえ、「母」だった。
ガンも末期で、肺に水が溜まり、苦しんでいて、明日からホスピスに入院する手続きをしようと決まったその日から、衰弱がひどくなった。
私たち4人姉妹が交代で病院に泊まり込んで付き添った。
「悪いね。ごめんね。」と言い続ける母。私と姉が「こんな時ぐらい親孝行させてよ」と言うと、しばらく黙って考えていた母。
急に、「それなら」と言って、長男の嫁である姉や私に、近い将来経験するであろう義両親の介護に備えて、「私の体でその練習をしなさい」と言った。
そして、少し動くだけでも溺れているように息苦しくなる中にもかかわらず、病人の起きあがらせ方や着替えのさせ方など、結構厳しく「こうするのよ」と、私たちを指導(⁈)した。
これが余命わずかの人かと思う程の気迫を感じた。というか、わずかだから「今しかない」との思いだったのだろう。
母と共に祖父や祖母の介護を一緒にした経験がある下の妹2人には、母はそんなことは言わなかった。
姉と私には介護のことは教えてやれなかったから、最期の母としての務めを果たそうとしていたのか。
いつも笑顔で、父を頼りに生きてきた母が、こんな強い人だとは思わなかった。「女は弱し、されど母は強し」を見せられた気がした。
(とても真似はできそうにない)と、我が母ながら、その天晴れな最期には「降参🙇♀️」としか言えない。
母を思い出しながらこうしてnoteを書いていると、子どもたちから相次いで花が送られてきた。
今、我が家は花だらけだ。
宅急便のお兄さんは『母の日』のお届けものに忙しいらしく、ハァハァと息を切らせながら、慌ただしく荷物を私に渡すと、お向かいのお宅のインターフォンを押しに走って行った。
ご苦労様です🙇♀️。
私も母のように、とびっきりの『笑顔』一つを遺せるような毎日を送ろうと思う。
最期まであっぱれな、そんな母の生き方を真似したい。