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へっぽこお遍路日記54「がんばれば報われるという考え方を僕はいつ、どこで自分の中に持つようになったのだろう」
1月15日 22.9km まわったお寺無し
この日も早くに起き出したものだ。歩きはじめて、道路脇の田んぼにおりた霜であらためて冷え込んだことを実感する。とにかくカラダを温めたくて歩き続ける。
ちょうど日が射しはじめたころに、道路のまんなかに茶色のかたまり。
近づいて見てみたらタヌキさんだった。夜のあいだに車にひかれてしまったのだろう、カラダにも霜がおりていた。幸いカラダはきれいなままだったので、手拭いでくるめて、道路脇の草が茂っているところまで運んでそっと置いた。
手のひらをおなかのところにあてて、ごめんね、ここで休んでねと心の中で唱えて。
僕のおとんが昔からそうするのだ。ひかれている動物がいたときのために車にタオルを積んでいて、そうして見つけたときには道路の脇にのけてあげる。
おばあちゃんがしていたそうなのだ。
「そのままだとぺしゃんこになってしまう。何度もひかれるのはかわいそうだ。」
とはじめたのを、おとんも見て育ったのだろう。
車が停められないところだったり、見てしまっても余裕がなかったり。僕もできるときも、しないときもあるのだけれど。
9時過ぎに集落にたどりついて、そこには温泉があったので、あったまることにした。1時間と少し。地元のひとは、毎日来ておられるのだろう、サッと入っては出て行かれる。僕が入ったときにおられたかたはもう誰もいなくなっていた。
食堂もあったので、定食をいただいた。
この2ヶ月ほとんど家庭料理というものを食べていない。人の手が作ったと感じられるもの。
それはコンビニにはなくて。チェーンのレストランにもなくて。
だから遍路旅を終えて、家に戻ってきて、自分でごはんを作って食べたときに。
あぁ旅が終わったんだ。と感じた。
旅とは物理的な距離や、自分の育った国に戻ってくることが、旅の終わりを感じさせるばかりじゃなくて、こうして日常として自分が触れているものに触れたときにフッと湧き上がってくるようなものなのかもしれない。
温泉ですっかり気が緩んだのか。
そこからの道のりはとにかくしんどかった。
時間が長い。それなのに距離はたいして進んでいない。
明日1番札所にたどり着けば終わり。
たったあと1日だけれど、自分のカラダやココロはそんなにシンプルに最後だからがんばろうとはなってくれないようだ。
夕方にたどり着いた町で、公園を目指して歩くも足をひきずるよう。
ちょうど左手に、住宅から離れて小さなお堂があった。ひさしも出ている。ここで野宿させていただこうとマットと寝袋を広げて、バッグに残っていた食料をかじった。
暗くなったころにお堂の前に軽自動車が停まった。
あれまーと僕も向こうも思っただろう。歩いてこられたおばさまに「すいません遍路のものです。今晩だけ野宿させていただこうと思っております。」と告げると、どうぞどうぞ、大変ですね。寒いでしょう。と返ってきた。
ありがとうございます。寛大な心で受け止めてくださって。
お堂の管理をされておられる方だろう、戸締りをして、また僕にひと声かけてくださって車は走り去った。
10分くらい経ったろうか。また同じところに車が停まって、さっきのおばさまが「はい!寒いので気をつけて。」とホッカイロを持ってきてくださった。わざわざ僕のために戻ってきてくださったのだ。
自分では気持ちが入らず情けない1日を過ごしたと思っていた。
けれどもこうしてまた手を差し伸べていただく。
がんばったご褒美と、人とのご縁を自分がどこかセットにしているんだなぁとこれを思い出しながら書く自分がいま思う。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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