今日という日をはじまりにしよう。
休憩で立ち寄ったパン屋さんでコーヒーを淹れさせてもらって、旅のお供にリンゴやカップケーキをいただいたほかは、割と静かに1日を終えたなと思いながら75km地点のチュンジュンという街で宿泊を決めた。今日は割と大きな街だから宿には困らなさそうだ、と思ったの。けどなんか味気ないというか、だだっ広いというか。いつもモーテル(ラ◯ホテル)のまわりにある商店街や市場を楽しみにしているんだけれど、綺麗に碁盤の目のようになっている町にはくっきりと宿のほかには家かコンビニか駐車場のおおきなレストランがあるばっかしでしっくりこない。とりあえず立ち寄ったモーテル駐車場で「やっぱり違う!」と他のホテルをググってみたら街の外れに1軒ゲストハウスがあって、家族が映ってる写真がのっていて、これだ!とまたサドルにまたがった。
高校みたいなのがあって、たくさんマンションが立ち並んでいて、そして学校終わりの学生たちがキャッキャしながらおしゃべりを楽しんでいて、なんだかいいなぁと思う。どこだって変わらない。ただ日常を送っている人たちの営みというのは。そこに国とか宗教とかのフィルターがかかったときに、どうしても僕らにはどこかから入ってきた感情がムクムク起き上がってくるような感じがするのだ。どこまでもフラットで、続きとして見られたらなぁと思う。どこにいたって、どこを旅していたって。その国のもともとの姿をただそっと、見守っているときにはあたたかな感情が朝のお日さまのように優しく当たってくれる気がする。そうして目抜き道路から1本入った住宅街にそのゲストハウスは無かった。なかったのだ。
看板がどこにもなくて、地図を見る限り宿があるはずのところにはカフェがある。けどそのカフェにBOHEMIANと書いてあって、なんか自由やん、焙煎機も置いてあるし、と思ってたぶん事務作業をしてはったカフェの人に声をかけた。ゲストハウスはここじゃないですか?と尋ねたらお兄さんが流暢な英語で「あったんだけど、もうなくなっちゃったんだ」と返してくれた。なんとなくそんな気がしていたからしょうがないな、けどコーヒーこだわってはりそうやし自分のこと話しておこうと、自転車で旅してるのーと言ったら「コーヒー飲んでく?」と声をかけてくれはった。なにかがはじまるときには、こうしてお互いがなにかの行動を起こしてスイッチをONするみたいに現実が動きはじめる。
浅煎りのめちゃんこフルーティなエチオピアのドリップコーヒーをいただきながら、今回の旅のことを話して、ほんならお返しに僕のコーヒーも飲んで!と店先で準備をはじめた。オーナーのお姉さんがお母さんで、英語が流暢なのが息子さんだと話しながら分かって、彼の通訳で話していたら、このお母さん韓国のバリスタ選手権で審査員をするほどプロだということがわかった。そんなお母ちゃんも僕のイギリス製のコーヒーミルとか、ボンマックの美しいコーヒーポットとか、日本の焼物の器を見て、わー!すごいー!欲しいー!とかはしゃいではってとっても楽しい。
そうこうしていたら近所の家族もなにごとかとやってきて、みんなでコーヒータイムがはじまった。コーヒーを横に並んで飲みながら、旅のこと、国のことなどお話も生まれた。あとから来た家族の奥さんは旦那さんとともに結婚してから日本へ留学して何年も過ごした。仕事もした。だから日本のこととっても好いていてくれて、けれどテレビで流れるいまの日韓関係に心を痛めているし、日本にいたことに対してよくない感情を持ちながら接しているまわりの人もいるんです。ととっても上手な日本語で、けど眉をハの字にしながら真剣に語ってくれはった。だからお兄さんのしていることほんとに嬉しいと僕の目を見つめながら話してくれたよ。だから僕は心を決められた。
きっと、きっとたくさんの人を笑顔にしようって。
コーヒーはメッセージではなく、誰かの心に余白を生むものだ。
その余白がきっとそれぞれの人にとって何かを感じたり、考えたりする居心地のよい部屋になっていくのだと思う。だからこそ笑っていようって、重たくない気持ちでコーヒーを淹れて飲んでもらいたいって。そう心に決めた。
夕食を一緒させてもらったら、やっぱりみんなで食べるごはんは美味しかった。おいしい?と聞いてくれる彼らも嬉しそうだった。もちろん僕も嬉しかった。今日が一生の思い出になったけど、今日がはじまりだね、そう夜のドライブで韓国の中心を意味する仏舎利塔に連れて行ってもらって、そこを歩きながら彼らと言葉をかけあった。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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