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旅をできなくなった僕が、コーヒーセットを詰めたリュックだけを旅に出した理由
子どもを旅に出し、家に戻ってくるまで。
どんな気持ちで親は待っているのだろうか。
そりゃ想像しようと思う気持ちもあったし、実際に心配をかけているんだろうという思いもありました。人からも「親御さんは反対しなかったんですか?」と質問をいただくこともたくさんあったので、自分なりに分かっていたつもりではいました。
けれども全然分かってなかったなぁ、とリュックを旅に出した今なら思います。
今日はカラダで旅することができなくなった僕が、モノを旅に出すことで心の旅を続けようとしているお話です。
コロナ禍で僕は以前のように旅に出ることができなくなりました。
自分が会いたいひとに。いきたいところに。やりたいことに。
それらにたいして自由でありたいという思いがこの生き方を選んでいるひとつでもあるんですが、それがコロナという僕らのところにやってきた新たな環境によって制限されるようになりました。
それはそのまま、他のもの(誤解を恐れず言えば社会で普通に働き生活すると手に入るものたち)を手放して、この生き方を選んだ僕にとっては大きな損失とも言えることかもしれません。
けれども「生き方」ってその環境が変わることによって「こんなはずじゃなかった!」と失ってしまうものであっては、結局のところ普遍的なものではないと思うのです。それは生き方というのは【条件】のことを言うのではなく【心持ち】のほうにこそあるのではないかと思うからです。
そうでなければ、日本のようにある程度の選択の自由を持ち得る国に生まれることと、僕たちがニュースで見るような大変な国に生まれることでは、その人の人生に優劣がついてしまうような見方になってしまうことになるから。
僕はなるべく自分が考えること、指針と置くことについて、日本だから、自分だから、いまの社会だからという条件だけにしか当てはまらない事柄については疑うようにしています。
さて話がちょっと遠回りしましたが、こういう考え方でふだんから生きていけるようにと思っているので、今回のコロナ禍で「自分の生き方ができなくなった」という「心持ち」を持ってしまうということは、そのまま自分が思い描く生き方への敗北です。
勝ち負けじゃないでしょ、と思った方々すみません言葉にするとしっくり来るのがこれしかなかったのでそう書いています。僕は家に引きこもりながら(正確には子どもたちとの鹿児島への自転車旅の前、ネパールにいたころにはイメージを組みたてはじめていましたが)旅ができなくても自分が旅を通してやりたかったことを叶える手段を考えはじめていたのです。
そうしてお湯をかけるだけのドリップパック(これならコーヒーの器具や知識がない方にも美味しく気軽に飲んでもらえる)と手紙(僕はコミュニケーションを目的としてコーヒーをやっている)を届けることでフリーコーヒーの旅のようなコミュニケーションをみんなが自宅待機生活を送っているなかでも作り出すことができるんじゃないかと思ってやっていました。これは僕の旅でいう心の部分です。
それではもうひとつの実際に自分が移動することや、きっかけが生まれたとき、出会いによって行き先が変わったり予定が変わったりしていたような、旅の予測不能性から生まれるドラマを生み出すためにはどうすればいいか。
それには「フリーコーヒーをオーダーしたら手元にコーヒーとお手紙が届く」という約束では生み出されない。だからこそ自分がコントロールできない状況で「旅のようなもの」を生み出す必要があると思ったのです。
最初のイメージはこうでした。
僕が旅をできないから、旅から僕を抜けばいい。
つまり僕は旅ができないけれど、僕が旅に持っていくものだけが旅に出ることは可能。
だからリュックにコーヒーセットを詰めて旅に出せば、あとはそれを受け取った人たちがそれでコーヒーを誰かにいれたり、自分で楽しんだり、次の人のところに送り出すことで、僕がコントロールできない状況を生み出すことができる。けれどそれがただの手段になってしまってはいけない。というものでした。
だから僕は旅するリュックに自分にとって一番思いいれのある道具を詰めました。
コーヒーミルは友だちの旦那さんの形見、コーヒーポットはフリーコーヒーの旅をともにしてきたもの、コーヒースプーンはネパールの代々王族に装飾品をおさめてきた銀細工職人家系の仲間が作ってくれたもの。道具のひとつひとつに自分の物語があるものを選び、それを旅のリュックにいれたノートに書き記してあります。
そうしてこのコーヒーセットを詰まったリュックを受け取った人がコーヒーをいれるときに、そこに世界やイメージが浮かび上がると思ったのです。だからこそ思い入れのあるものばかりと、それについて語る文章をいれたわけです。そうして自分が焙煎したコーヒー豆とともに北海道の仲間のところにそれを送りました。
彼からは「受け取ったよ」という報告はありません。もしかしたら届いていないかもしれませんし、もうすでに次のひとに渡しているかもしれません。けれど僕はそれを彼には尋ねません。僕の両親が旅に出てからの僕に連絡をしてこなかったのと同じように。
僕こんかいね、リュックを旅に出して分かったんです。
すんごい気になるときもあるの、不安になりそうになるときもありますよ。
僕の大切な思い出のつまったものたちだから。
けれど旅に出すということは信じることなんだなと思いました。
旅に出すということは同時にあきらめるということなんだな、ということもわかりました。
一度旅に出したらもうそれは、その人のものなんです。
その人の心が自由であるために。その人が心おきなく旅に没頭できるために。
だから僕はリュックの行方を追っていません。いつかまたそれが僕の手元に戻ってきたとしたら、きっとそのリュックのノートにはたくさんの物語が綴られているだろう。
そう夢見て今も過ごしています。
それはもう旅そのものだな、と思うのです。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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