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社会とは僕であり、あなたである。
社会とはなんだろう。
社会とは「あなた」であり「ぼく」だと思う。
豊かな社会をつくりましょう。
格差のない社会をつくりましょう。
いじめのない社会をつくりましょう。
困ったひとに手を差し伸べることができる社会をつくりましょう。
この社会は生きづらい。
なんでこんな社会になってしまったのだろう。
社会に出たくない。
社会のテストがあしたある。
世の中にはこんなに社会があふれている。
けれどぼくらはどっかで、じぶんよりも、家族よりも、村よりも、町よりもおおきなことととらえていないだろうか?
社会とは政府がつくるものではなくて、僕らが投票で選んだ国会議員がつくるものでもなくて、市長さんがつくるものでもなくて、学校の先生がつくるものでもなくて、お父さんがつくるものではなくて。
そこに「ある」ものなんだと思う。
だからそこには僕がいる。あなたがいる。お父さんも、先生も、市長も、国会議員も、首相もいる。
だから社会をよくしよう、ということは自分がそこにふくまれてる。
社会に出たくない、ということは自分がそこにふくまれてる。
だから自分が死にたいくらいのつらさを感じていたら、この自分も社会という意味で社会はほんとうの意味ではよくならない。
僕は社会のシステム(仕組み)のことは言っているのではなくて、ひとがともに暮らす集まりという意味で言ってる。システムを否定する気はないし、そのシステムがおかしいからとひっくり返す意気込みで生きているわけでもないし、そのためにこれを書いているわけでもない。
社会を自分ごとにしよう、と思って書いている。
自分のなかでふたつの社会を持てばいいんだと思う。
そう、社会にはふたつある。
ひとつは自分ではどうしようもない社会。
それは税金であり、法律であり、条例であり、もしかしたら会社のルールだったり、学校の決まりごとだったりすることもあるかもしれない。
自分がどうしようもない、もしくはそれを変えるほどの情熱は持っていない、そんな社会はどうしようもない社会。これを外の社会と呼ぶことにしよう。
外の社会には自分ではどうしようもないことがたくさんある。理不尽なこともあるだろうし、だんだん自分がしんどくなってしまうこともある。けれども社会だからそこにいるみんなは嫌でもこのなかにいないといけない。
そんなときにどうするか。
もし自分が息ができなくなってしまうくらいになりそうだったら、その前に、うまく付き合っていくにはどうしたらいいかを考えよう。だいたい家族でも恋人でもあんまり相手にいれこみすぎると息が詰まってしまう。その変わらなさにため息が出たり、あんまり度が過ぎると「なんでこの人は!」なんて怒りに変わってしまう。そしたらもうそうなったときには、たぶん自分がしんどくなってしまう。
だからそうなる前にうまく付き合う方法を考えよう。
しんどくなって休んでしまっても、あなたは人として罰せられることはない。あなたがいないとどうしようもないことはない。あなたがいても、あなたがそこにいなくても、だいたいのことはそれなりに進んでいく。これを書いている僕だってそう。
自信が無くなって、ゴロゴロしていて、あさ鏡を見たら情けない自分がそこにいて、そして「こんな顔では今日はもう人には会えないや」とまた引きこもって、そうしているうちに4、5日過ぎているようなこともある。けれども、半分あきらめるように「えいや!」と外に出てみたら、社会はこれまでどおり動いているし、友だちに会っても「げんきー!?」と僕の昨日までの4、5日なんて無かったかのようにそこにいてくれる。
外の社会は、うまく付き合っていく社会だと思う。
あんまりここに自分を入れこみすぎる。つまり自分がしんどくなってきている、おかしくなってきていることを我慢してしまって入っていくと、気がついたら戻れなくなってしまうときがある。
けれど大丈夫。あなたは社会ではぜったいに必要なひとだけれど、外の社会(システム)ではあなたがいないとどうしようもならないことは、そんなにない。
だからあなたが社会を変える革命家になるんだと思っていないのなら。
あなたの生きている軸をこの外の社会に全部突っ込んでしまう必要はない。
さて。社会の話をしよう。
僕が話したいのはこっちの社会。
「社会のために役に立つ人になりましょう」
小学校によく書かれている。先生の会議にだって出てくるよ。めちゃんこ。
「21世紀の世界で活躍できる人を育む」
マジか!と思う。
大丈夫。僕もこの言葉を決めたあなたも、目の前にいる子どもたちより、もう世界の後ろ側にいるから。問題なく取り残されている。時代はいつだって自分たちより若いひとのほうに味方する。
このときの社会とは何か。どうしてそのことをもっとキチンと見せてもらえないのだろうか。システムという社会と、心をともなう、人があつまってできている社会と。
たいていの場合、世間で語られる社会はこのシステムのほうにだいぶ持ってかれていると思う。けれどシステムの方にめちゃんこ比重が傾いてしまっていて、だからこそ社会のためにがんばっている人たちが、どんどん心がしんどくなっていってしまっては、これはどちらの社会にとってもいいことないのだ。
社会に出ていきたくなる社会。
関わりたくなる社会
はやく大人になりたい社会。
誰かに自慢したくなる社会。
こんな社会はできないのか?
(できるわけねーよ!)
ありがとうございます。誰かの声が聞こえてきました。
けどね、大きな社会じゃなくて小さな社会で考えてみるとね。
子どもたちが勉強したくなる学校というのは、「うぉー!べんきょーしてー!」と子どもたちに思わせることができる環境をつくることから生まれる。
社員ががんばりたくなる会社というのは「うぉー!めっちゃ仕事してー!」と社員に思わせることができる環境をつくることから生まれる。
人が生き生きとする社会というのは「うぉー!めっちゃ幸せー!」と人に思わせることができる環境から生まれる。
多くのはその「環境」こそがその枠組みをつくる人たちには大事になってくると思う。だったらそれを作ればいい。
いま日本という社会にいるどれだけの人が社会のために生きているだろう。
日本のために!社会のために!みたいなの。
多くの人は「しなければいけない」と思わされていないだろうか。
生きていかないといけない。
社会に参加しなくてはいけない。
仲良くしなければいけない。
働きに行かなくてはいけない。
「しなければいけない」が集まった暮らしに、社会がよくなる何かは含まれているのだろうか。
人を豊かにするためのシステム(そう信じようとりあえず)が人の心を消費してしまっては、ほんとの意味ではどちらも豊かにならないのだ。だからこそ、心が豊かになっていくことをつくっていかないといけない。
けれども、僕が思うに、いまのところの世の中でそのまま浸ってしまうと、ちょっとそのきっかけに出会いにくいような気がするし、ちょっと自分から動いていかないとしんどいなーと思うような気もする。
だから自分でつくることができる、自分の社会について書こうと思う。こっちがある程度自分の中にあれば、豊かだ!とは言えなくともある程度、このいまの社会のなかで気持ちとして渡り合っていけるのではないだろうかというお話。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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