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ご縁。引き寄せ。なんにせよ、何か偶然とは思えないことが起こるということをどう捉えるか。

4丁目の石くんのところへ行ってきた。
新居に仕事を終えて通っては、少しずつ引越し準備をしていること。
最近店に来てくれた共通の仲間の近況。
コーヒーの仕入れ先についての話。
阿波踊りのないお盆は、特に祭りのない自分の故郷のお盆を思い出したこと。

そんなことをとりとめもなく話していた。
そんなときに、そういやこないだ海で泳いでいたら棒っきれみたいなものが浮いているなと思って、近づいていったら背泳ぎをしているケニーやって笑った!という話から、たまたま誰かとばったり会ったり、思っていた人がお店にやってきたりそんな話になった。

石くんは、ときどきしか夢を見ないそうだ。
けれどもそのときどき見る夢が現実になったりするそう。

「京都の小さい店で働いていたとき、夢であるお客さんが来たのを見た。翌日なんとなくそれを覚えていながら仕事していたら、そのお客さんがふらっとやってきて、夢で見た同じ席に座ったことがあった。」

「アナウンサーをしている友だちが夢に出てきて、“私もうすぐ徳島を離れるんです”と話した翌日にその子が店にやってきて、その夢のことを話したら彼女が“実はもうすぐ徳島を離れることになったんです”と話してくれたんよ。」

みたいなことを話してくれた。

偶然といえば偶然。たまたまは、たまたま。

僕はこういうことをおもしろがりたいから、その話を聞いて、こう勝手に思った。

寝ているときに、誰かの意識とリンクして夢に見る。その相手は無意識なのかもしれないけれど、その潜在意識が石くんに届いていて、その潜在意識が“石くんの店に行こうかな”と呼びかけて、本人はなんとなく石くんの店に行ったのかもしれない。

これには、科学的根拠は!?とか、スピリチュアル!?みたいなことが語りたいのではなくて、そうだったらおもろいなぁぐらいに考えているだけだからそうとしか言えない。

こんな引き寄せみたいなことって、僕の生活のなかでもちらほら生まれていて、それは会わせたいとずっと思っていた仲間同士が思いがけないタイミングで揃ってしまうことだったり、自分がこんな人に会いたいなと思っていたらそういう人が現れたりということは起こる。

科学的根拠があっても、なくても、“それが起こった”ということは変えようがない紛れもない現実で、あとはそれを本人同士がどう捉えるかというところにだけ、その違いが生まれてくるのだと思う。

僕の場合は、どう解釈するか。

「よし、自分(の思いや行動)は違ってなかった。ラッキー。」

と勝手に良いほうに解釈している。

こんなふうに起こることが、よいこと、わるいこと、それを判断するのも本人だけれど、それが起こったときにどうその意味を受け取るかも本人次第。僕はどちらかというと、旅でいろんな大変な思いをさせてもらってきたので、この“受け取り方”という面では、だいぶポジティブな受け取り方をどんなときでもするようになったと思う。

例えば、メキシコで拳銃強盗に鉄砲を突きつけられ、身ぐるみをはがされ、全財産もパスポートも失ったことがあるのだけれど、それすら今では「ラッキーだった」と断言できる。もちろんそれで迷惑もかけたのだけれど、自分のその後の人生においては間違いなくプラスにしかなっていないと言い切れる。

生まれた環境の良し悪し、価値の多い少ない、夢が叶う叶わない、みたいな視点でいくとあたかも人生とは不平等だと思いたくなるものだけれど、それぞれが持って生まれた環境や人格、それからその人生で起こることを“どう解釈するか”ということは、すべての人にとって平等だと思う。

だから僕はどうせなら、自分のことも、まわりのことも、そしてそこで起こるものも“偶然などではなく意味のあること”として思って生きていきたい。

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