手放すことから、はじめてみる。
会いたい人、行きたい場所、やりたいこと、食べたいもの。
自分で思って行動することって、日々のなかで結構な割合を占める。
そんなことを思って日々を過ごしながら、
「うまくいかない」「なんかしっくりこない」
ということもあるだろう。けれど、できないこともあるけれど、
思い通りになってることだってたくさんある。
食べたいものを食べる。観たい映画を観る。行きたい場所に出かける。
こういうことは割と叶いやすいことだったりする。
そういう自分の「○○したいリスト」の中身にあるものの重さというか
重要度を分けるんじゃなくて全部テーブルに広げるみたいにしたら、
少し楽になるかもしれない。
「今日はこれはできなかったけど、これできたしな」
「今日は割とたくさんできたかも」
みたいに【できたこと】に自分の思いのポイントを置くだけで急に
楽になることだってあるかもしれない。
そんな日々の心持ちのなかに、自分なりの「悪くもってかない流れ」みたいなものを持つだけでもしかしたら1日のなかで、穏やかな気持ちでいられる時間が長くなるかもしれない。
それは気を紛らわしているわけでも、とりあえず結果を先延ばしにしているわけでもなくて。もし人生が100年時代とかいう捉え方じゃなくて、その日その日のものだったとしたら
「とりあえずできたことも、できなかったこともあったけれど、気持ちよく過ごせた」
ということがきっと意味を持ってくるのだと思う。
僕はライフプランというような人生設計は持っていない。
「持たないとある程度までしか君は行けないよ」とかもし大先輩に言われたとしても、はいそうですか!と言って聞く耳を持つつもりはまったくない。
自分のことは自分なりに36年間見守ってきたつもりだ。
自分のダメなとこもなんとなくごまかしがきかなくなってきたと思う。
僕は予定を立てることが苦手だ。
カレンダーにスケジュールをテトリスみたいに詰めることが苦手だ。
急にどこかに行きたくなったり、急に誰かに会いたくなったりする。
そんなときにスケジュールがかっちりしすぎているとそれができない。
だから僕はノーガード戦法みたいに、この段取りとスケジュールと約束がたくさん意味を持つ社会でもうちょっとだけ雲のようにフワッと浮かんでいるような生き方ができればなと思う。
それは、まったく社会と切り離させれて、一匹オオカミとして生きるというようなことでは全くなくて、自分のなかにそうやって自分なりに持てるグラウンドを大切に守っていきたいということだ。
そうすれば、昨日はちょっと余裕がなくてため息が出てしまったりしたけれども、また自分のペースに戻っていくことができる。そんな風に日々を過ごしたい。
「○○したい」で僕がこだわりを捨てたのは
「だれかに会いたい」だ。
前は結構だれかに会いたくなると、自分のペースを崩してでも、相手を捕まえてでも会わなければみたいに思っていたこともあった。けれども最近は(かといって前もってアポを取っておくというようなことは相変わらず苦手でできない)、パッと誰かを思いついて会えませんか?と連絡して、会えなかったとしても、「今回はご縁が繋がらなかったから、また思い出したときに連絡してみよう」と割とあっさりと諦めがつくようになった。
ご縁という言い方もできるだろうし。
相手がむりくり時間を作ってくれたところで、いい時間になるかはまた別なのも確かだ。
どうせならお互いが「いやぁ今回はバッチリタイミングあったよね!」なんてハイタッチしながら再会できるくらいなら、ほんとに良い時間になると思ったりする。
人生の充実度って詰め込むほうが(忙しいほうが)いいみたいに人目には映るのかもしれないけれど、僕は余韻を味わうことができるくらいの余裕があるほうが、次の予定が少し空いていて「じゃあ歩いていこうか」ぐらいに思って動けるほうがなんとなく充実というよりも気持ちいい気がする。自分も気持ちいいし、そうして会う相手もバタバタしている僕に会うよりも気持ちがよいかもしれない。
こうして自分が日々の生活で持てる余白(心のスペース)って結構なんにでも使えるというか、ゲームで言うとオールマイティなカードみたいな感じで結構いいと思う。そしてそれはしがらみや責任にがんじがらめになってしまってさえいなければ、割と誰でもサッと作ったりできるもんなんじゃないかなぁとも思ったりする。
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自分が自分でいられること。
旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…
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