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好き嫌い

大人数で飲みに行くときはどうしたって人間関係の話になりがちなんだけれども、ひとつのコミュニティの中でもたくさんの人間関係が渦巻いていて、そういう中で自分のことを周りがどう評価してくれているのか聞く場面がある。

最近も周りに自分のことをどう思っているのかを聞いて、理想の自分と現実の自分とのギャップに戸惑いが隠せなかった。

理想の自分はフレンドリーで、相手の目線に立って何を求めていて何が必要かを瞬時に整理して話すことができる存在。相手の負担を瞬時に理解してできる限り寄り添うことができる存在だ。

一方で現実の自分は正義感が強いくせに、人前だと強く言えず、人の話を聞かず、思考の言語化に時間がかかり、喜怒哀楽が激しく、調和を掻き乱す存在。個性的でコミュニケーションコストのかかる存在だった。

バランサーとなる人物がいることで初めて自分の言葉を正しく相手に理解してもらえるところは、もしかすると昔からそこまで変わっていないのかもしれない。年齢に対して少し幼すぎるのではないかと、穴があったら入りたい気持ちに襲われた。

オンラインゲームの人狼ジャッジメントを始めてから三年近く。人狼ハウスの門を叩いて対面人狼を始めてから一年ちょっと。知れば知るほど人狼は思考の一貫性とコミュニケーションで成立するゲームだと思う。

正直なところ上に書いた現実の自分のキャラクターとは相性の悪いゲームだと改めて思っている。それでも何故か続けてしまっているところはこのゲームのコンテンツ性の高さに拠るところもあるのだろう。

こうした自分のキャラクター性とゲームの成立性を対比させたときに生まれる歪みで、自分と相性の良い人と悪い人が出てくる。簡単にいうと「好き嫌い」だ。

自分はこの歪みがある前提でゲームをしているけれどコミュニケーションコストがかかる人を相手にするよりも思考の綺麗な人との対話を通じて自分のスキルをもっと底上げしたい人や、ポテンシャルどうのこうのというゲーム外要素で議論を掻き乱す存在が苦手な人にとっては嫌いと思われてしまうのも無理はないのかもしれない。

一方で、盤面整理が苦手な自分であっても例えば人狼となって盤面が見えた状態でゲームをしていると、当然ながら味方を売ることもできれば盤面が見えていない相手の主張を圧迫することもできる。

そういった意味でゲームに異分子が入った状態で進行する状態を好ましく思うプレイヤーがいるのも事実でそういった相手と友好的な関係が築けているのは素直に嬉しい。

少なくとも今自分と定期的に会って会話している人たちは後者なのではないかなと思っている。

本音を言えば自分はできる限り沢山の人と仲良くしたい。自分の考え方や思考の手順をお互いが共有することで自分たちの強みを引き出す勝ち方が増やせる可能性はあるし、ゲーム以外のことでも会話ができれば嬉しい。

もちろんそれは理想論であって現実には起こり得ないと思う。好き嫌いが生じるのも、面倒くさい・関わりたくないという感情が生じるのも、人間同士のコミュニケーションという観点では致し方ないのだと思う。

理想の自分になることを諦めたわけではない。だけれど現実の自分の不甲斐なさにもがき苦しむ自分と楽しみたい・関わりたい人もいることも事実ではないか。自分も結局は現実の自分を受け入れなければ前に進むことはできないのだと痛感している。

「没個性よりは個性的な方がいいんじゃない?」と言ってくれた友人の言葉を大事にして、これからも人狼に限らずあらゆる場面において自分しか持ち得ない大きな個性を発揮していきたい。

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